2007年6月  1.キリスト者の家庭
 家庭に愛をもたらすことは、キリスト者の使命の一つではないでしょうか。家庭は、子どものいのちが育まれる場所であり、また、疲れや傷ついた心を癒す場所でもあります。神の愛によって生まれたいのちが、親の後姿を見て、親との関わりを通して、神の計画のために働く者として健やかに育っていくよう、互いへの愛を実践する場所なのです。

 一つひとつのいのちのすべては、神からの美しい贈り物です。けれども、しばしば親の限界によって、また、親の専有物のように扱われて、子どもたちは親から傷つけられることがあります。親自身が、課題や偏りを抱えた傷ついた存在でもあるからです。そんな中で、親自身が神との交わりによって照らしをいただき、主の平和のうちに招かれ、かたくなな自己から解放されます。神が私たちの過ちを神の子として赦し、慈しみのうちに成長を見守ってくださるのですから、親としてすべきことは、子どもの成長を神に委ねて見守り、待つことなのでしょう。

 子どもは親の価値観からは理解できない行動をとることがあります。イエスもそうでした。12歳の時、両親と離れて一人神殿に残り、学者たちと話をしていました。心配してやっと見つけたイエスに、なぜそのような行動をしたのか尋ねますが、ヨセフもマリアも、それに対するイエスのことばの意味を理解することはできません。マリアはそれらのことをすべて心に納めます。私たちは親の理解を超える子どもの行動に対して、親の価値観を押し付けようとしたり、親の枠に子どもを入れようとしたりしがちです。けれども、祈りの中でその意味を神に問い、信頼して委ねる時、必ずふさわしい時に神からの照らしが与えられるでしょう。親は早く答えを欲しがり、心配したり不安になったりしますが、祈りながら神に信頼して待つ時に、そのことに示された神の働きを見ることができます。

 「見ないで信じるものは幸い。」先の見えない時にこそ、神に信頼し毎日の小さな一つひとつを愛をこめて大切にしながら子どもと接したいものです。その時、その交わりの中に神は共にいてくださいます。