2007年8月  4.イエスの愛と慈しみ
 私たちは数え切れないほど、測り知ることのできないほどの祝福と恵みを受けているのですが、自分の近くにある幸せが見えなくなるほどの悩み、苦しみ、痛み、悲しみを抱えて生きています。世界の各地では紛争や戦争も絶えることがありません。豊かで快適な生活を送っている人々や国々があるのに、今この瞬間でも、どのように生き続けることができるかという不安や貧困に脅かされている人々や国々もあります。

 アフリカの極貧国の一つといわれている国で出会った赤ちゃんのことを思い出します。お母さんにおんぶされて家から出てきた赤ちゃんの目のまわりに無数のハエがたかっているのを目の当たりにして、私は神さまに「どうして?」と叫びました。同じ地球上に「いのち」を受けていながら、このような環境で生き抜いていかなければならないこの赤ちゃんの苦しみ、その家族の苦しみを神さまはどのように見ておられるのでしょうか?

 今でもその情景を思い出すたびに、私は神さまに文句を言います。「どうしてこんな状況をあなたは放っておくのですか?」と叫びます。しかしその度に私に返ってくるのは、「それで、あなたはどうしたいのか?」と問うイエスの声です。その声にハッとして、少し離れたところからイエスのしぐさを想像すると、優しくその子に手を触れて、母親に話しかけている姿を見る思いがします。「あなたの信仰があなたを、そしてあなたの子を救った」とおっしゃっている声を聴く思いがします。

 たいへんな貧しさのなかで、その子をすぐに治療できる薬も病院もない現実を否定することができません。しかし、その子が少しでもこの苦しみから遠のくことができるように、また、失明することがないようにと必死で祈っている母親やおじいちゃん、おばあちゃんがいるのです。彼らは赤ちゃんの「いのち」を神さまからの大切な預かりものとしてそのままを受け入れ、苦しみをともにしながら、成長を見守っているのです。イエスご自身が、弱い人や病人に近寄り、手を触れ、声をかけられている姿を、私たちはこの人々の強い信仰と希望、愛を通して知ることができるのです。

 子どもの苦しみや病いを自分のこととして受け取り、その子に寄り添う母親やおじいちゃん、おばあちゃんの姿は、絶望を希望に変え、希望を信仰に変える雄雄しさがあります。その力強さは「愛」ゆえに十字架上での死を受け入れ、その死によって御父が復活という新しい「いのち」を与えられたイエスへの信頼と信仰によって支えられている「愛」の強さと言うことができるでしょう。どのような苦しみ、悩み、行き詰まりがあっても、イエスの死を通して、私たちが「復活されたイエスのいのち」にあずかることができるとしたら、私たちも「恐れることはない」のです。復活の後イエスは、さらに「あなたたちに平和」を、と約束なさいました。そのような愛と慈しみをいただいている私たちはそこに恐れのない平和という「真の幸福」を発見することができるのではないでしょうか。