2015年2月  4.食を絶つ修行
 人間の生命をつなぎとめていくために、欠くことができない基本的な要件の一つに、食があります。もちろん、水も空気も大切ですが、活動のエネルギーとなるものは、食を通して体内に取り込まれます。生命を維持しているこの食の尊さを、身をもって体験するには、その食を絶ってみてはどうだろうかと、先人たちは「断食」という修行を考え出しました。日本でも、禅寺の修行の中に断食が組み込まれたりしています。高僧となるための修行には、長い期間の断食も必要なのでしょう。
 では、人が食を絶つと、どのような状態になるのでしょう。まず、感覚が非常に鋭敏になってきます。空腹感が湧き上がることはもちろんですが、音がよく聞き取れたり、色が鮮やかになったりします。空腹感はやがて、じわじわとした内臓の痛みに変わり、体内に蓄積された、特に肝臓に蓄えておいたエネルギーを放出しながら、自分の体をとりくずしてかろうじて生きていることが分かるようになります。感覚の鋭さは、実際に見えているものと見えていないものの区別ができないような状態に発展します。瞬(まばた)きすると、突然に昔どこかで見た情景に変わったりして、幻覚に似た状態になります。また、聞こえている音と聞こえていない心の中で響いている音との区別もつかなくなります。幻聴に似た状態になります。排泄もなくなり、内臓の痛みも激しくなります。
 イエス・キリストは、荒れ野で40日間の断食をしたと、聖書は記しています。そして、四旬節を迎える「灰の水曜日」に読まれる福音書では、断食をしていることを他人に気づかれてはならないと、記されています。このように断食は、イエスが生きていた時代にすでに、生命を実感し、生かされていることを神に感謝するための大切な修行のひとつでした。
 しかし、私たちは、ただの思い付きでこの修行を始めるべきではないようです。なぜなら、場合によっては命を落としてしまう危険があるからで、今日ではその断食を見守ってくれる人の同伴が不可欠のようです。
 この四旬節にあたって、大斎、小斎といった、教会の中で定式化した断食ではなく、食そのものを一日でも一食でも絶って、「いのち」を見つめることも、体験してみてはいかがでしょう。