2018年3月  3.共同体の霊的識別
 今月の教皇の意向では、個人としてばかりか、共同体としての霊的識別が緊急の養成課題であると述べられています。霊的識別とは、神の望みなのか、あるいは悪(神に反するもの)の望みなのかを、祈りのうちに峻別して、悪を退けて神の道を歩むことを指しています。その主体は、通常は私たち一人ひとりですが、教会や家族のような共同体としても、神の望みを生きる道を選ぶことができるように、養成を受けるべきだと述べています。
 私たちは、長い人類の歴史の中で、すべての人に基本的人権があるという開かれた社会を築いてきました。そして、参政権も、成人男女に平等に与えられ、物事を決める場合には、自分の意思で賛否を投ずることができるようになりました。これは、いわゆる民主主義(デモクラシー)であって、それを守る仕組みも整備されています。
 ところが、民主主義の仕組みは、悪意の存在を前提としていません。金銭やその他の利権を供与して票を買収する人がいたり、暴力を背景に特定の意見への賛成を強要する行為があったりすると、民主主義は成り立ちません。子どもたちが通う学校でも、委員などの代表を選出する場面がたくさんありますが、一人でも「いじめ」の心を抱いている子どもがいれば、民主主義はねじ曲げられてしまいます。
 私たちの心にも善意を蔑(ないがし)ろにする力が働くことがあります。ですから、教会や家庭などで何かを決める場合には、善意の立場が確保されるように努めなければなりません。これは「共同体による霊的識別」のこころと同じです。自分にとって何が都合がよいかを基準とするのではなく、神の望みはどこに向かっているかを基準として判断し、その意見に賛意を表明することなのです。ですから、霊的識別として物事を決めるときには、「賛成の方は挙手を願います」と問いかけるのではなく、「神の望みがこちらの方向だと識別した方は挙手を願います」と問いかけるべきなのでしょう。
 一人ひとりが識別の力を養うことができて、それを共同体における識別でも生かすことができるようにと、祈りをささげてまいりましょう。