2021年12月  4.喜び
 いよいよ2021年も残すところあとわずか。日本ではコロナ禍が一段落して落ち着いていますが、世界の各地では変異株の感染が拡大したりして、まだ予断を許しません。慎重に細心の配慮を心がけながら、終息を祈り願ってまいりましょう。
 日本の教会は意向のテーマに「クリスマスの喜びと祝福」を掲げました。意向の文章には「喜び」の語は使われていませんが、イエスの誕生を祝うこの時期に、「喜び」という心の状態について思いめぐらしてみました。
 ある居酒屋さんで食べ物やお酒を注文すると「かしこまりました」とか「承知しました」ではなく「喜んで」と返事を返してくれる場面に出会いました。その折に感じたことは、客の望みを叶えることで、相手の気持ちと自分の行いがぴったりと一致したという感覚の中で、笑顔の中から「喜んで」と声が出てくるのだろうと想像しました。そのお店では「喜んで」と客の注文に応えるようにと指導・教育されているのかもしれませんが、客の立場からは何かとても新鮮な響きが伝わってきました。
 喜びは、嬉しいとか、楽しいとか、愉快とか、おもしろいとか、心の表面でその瞬間に感じたことを表現しているのではなく、自分の行いが何かと一致していることが確かめられた時の心の深いところでおこる感覚を指しているのではないでしょうか。
 マリアは天使ガブリエルから、「あなたは身ごもって男の子を産む(ルカ1:31)」と告げられた時に、神の思いと私の身体の中での出来事が一致していることを感じとり、驚きや恐れや不安の中にあっても、心の奥底で喜びがじわじわとわき上がっていたことを想像します。
 クリスマスの季節に、イエスの十字架のことを思い浮かべることはふさわしくないかもしれませんが、イエスは十字架上でも、またゴルゴタの丘を登っている時も、痛みや苦しみ、辛さの中にあっても、自分の行いは神の御心と一致しているとの確信の中で、心の奥底では喜びがわき上がってきていたのだと想像します。痛みと苦しみの中で、ファリサイ派や律法学者たち、そしてピラトに対しての憎しみや恨みの気持ちで心がいっぱいになってしまっていたなら、隣の十字架にかかった罪人を天の国に招き入れる心のゆとりなど生じなかったでしょう。十字架上のイエスは喜んでおられたのでしょう。このように思いめぐらすと、聖パウロが「いつも喜んでいなさい」と語った真意が、「いつも神の御心と一致して過ごしなさい」と読み替えて、納得できるのです。
 救い主の降誕を待ち望む私たちの思いと、ひとり子を遣わす神の思いが一致して、私たちの心の深みに「喜び」が沸き上がることを大切に味わいながら、この一年を感謝のうちに閉じることに致しましょう。