旅のはじめに
 ワールド・ユース・デイ(WYD)の意義の一つに巡礼という側面がある。普通の観光旅行とは違い、ある宗教的な目的で旅をすることである。そのような巡礼において、何が大切だろうか。

 イエスは旅を始める弟子に対して、次のように語る。
「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。」(ルカ9・3)

「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。」(ルカ10・3-4)

 これは全く不思議な勧めである。現代の私たちの旅行と全く矛盾しているからだ。私たちが旅行するために、財布は絶対必要だし、着替えも必ず必要である。しかも旅券や切符、常備薬に何とかグッズとか。いろいろと持って行かねばならない。今度のトロントに行くためにも、緯度が高いので夏でも防寒着が必要だとか、シャワールームが屋外かもしれないので水着が必要だとか。最後のミサの前晩は野宿なので、寝袋やマットが必要になる。参加者は今、何を持って行くべきかいろいろと考えている頃だろう。

 しかもこの聖書の箇所では、狼の群れに小羊を送り込むとは、ものすごく危険が多いことを示唆している。危険なところに行くとなると、保険に入り、予防注射をして、さらなる安全対策が必要となるだろう。しかしながら、危険なところに送るからこそ、何も持って行くなという勧めである。何と非常識なことだろうか。

 それでも何も持たない旅の意味を考えてみる必要があるかもしれない。実際のところ、旅慣れている人ほど、旅の荷物が少ないものである。荷物が少ないほど、気軽に移動できるし、さまざまな変化にすぐに対応できる。荷物が多いと、フットワークが重くなるし、自由が著しく制限されるのは確かだ。物を全く持たないという勧めは現代の旅行では不可能だが、この勧めを信仰の旅の心構えだと考えたらどうだろうか。
 私たちの人生の基本は持って行く旅である。勉強にしても、仕事にしても、持つことが基本である。知識や経験を自分のものにして、積み重ねていくことによって、何かを達成することができるからだ。ところが、信仰の道はそのような積み重ねが成立していないかもしれない。積み重ねることではなく、むしろもっと身軽になっていくことが大切かもしれない。何もなくなることによって、より神に対する信頼が深まっていく。自分の無力感が分かるほどに神に対する信頼感が増すものだ。自我を手放すことによって、神がより働くようになる。畢竟(ひっきょう)、信仰とは離脱していくことではないだろうか。自分が全くの無になるときにこそ、実に神そのものがその無を満たすのである。神に満たされるとしたら、他に必要なものがあるだろうか。

 このような何も持たなくなる旅こそが巡礼という名に一番ふさわしいかもしれない。WYDに行くことによって、多くの感激や感動、さらに深い信仰体験が生まれてきたし、これからも生まれるだろう。そのような体験が、自分を豊かにしていくだけでなく、それと同時に、自分の執着から離れ、より自由になり、もっと神を信頼していくことができるなら、WYDも巡礼の旅にふさわしいと言えるだろう。
 そしてわたしたちの日々の信仰生活も、そのような巡礼の旅にしていきたいものだ。
英 隆一朗(イエズス会): WYDローマ大会に若者と共に参加、 今回のトロント大会にも同行予定。
写真: 山野内 倫昭
(特集-ユース 1 2002/7/5)

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