花嫁の父
 私には娘が側に二人「います。」「いました。」嫁いでも娘は娘、しかし花婿の花嫁でもあります。この現在存在形?と過去形の狭間に揺れ動く気持ちが、花嫁の父の気持ちを象徴的に表わしていると思います。愛する娘といつまでも一緒にいたい気持ちと、結婚して幸せになってもらいたい気持ちとが交錯します。今まで暮らしてきた思い出が次々に思い出されてきて、感動でも、悲しみでも嬉しさでもない、不思議な涙が頬を伝うのです。その娘と共に過ごした楽しい思い出を、たくさん、風船のような柔らかいものに涙でそっと包み込もうとしているのです。
 この出来事をイエスと語らいます。ある意味で娘が嫁ぐということは私とっては側にいなくなることですが、それが新しい家庭を生んでいくことになります。「なくなることが生まれることなのです。」長女は6年前に、そして昨年10月に次女が嫁ぎ、我が家は30年ぶりに妻と二人暮らしとなりました。このようにして側にいなくなったことで「話したり」「怒ったり」「笑ったり」という賑やかさではなく、静かに娘たちの幸せを「祈る」ことが中心になったような気がします。これを機会に静かに祈るように、との神様からのメッセージのプレゼントかもしれません。そしてこの切り替えに必要なのが、「花嫁の父」の涙なのかもしれません。
 イエスが最初のしるしを行って、栄光を現し、弟子たちが信じるようになったのは、ガリラヤのカナの結婚式のことでした。イエスにとってカナの出来事が出発点であったように、娘たちも結婚が新たな出発点でありますが、実は、子離れする私の出発点であるというのが真相のようです。次女が結婚するときの私あてのメッセージに、大学受験に失敗して一番悲しいときに一緒に泣いてくれたことが心に残っている、と書いてありました。一方、今日の結婚式は娘にとってきっと一番嬉しい日でありましょう。共に喜びを分かち合いたい気持ちになりました。
 また、娘たちが結婚した相手の若者たちに、「お父さん」と呼ばれる気恥ずかしい嬉しさも、新しい発見でありました。最後に、どうか神様! 将来は「花嫁の祖父」なんてことを望むのは欲張りでしょうか。
〈千葉 60歳男性 NPOボランティア〉
(出来事に聴く 52 2004/3/12)