償い
 私が教会に居心地の悪さを感じ始めたのは、まだ中学にも入らない頃だったと思います。それから長い間、教会の世界とは一定の距離を保って過ごしていました。「神父様を取り巻く集団は好きになれないな」とか、「優しいふりのお節介は嫌だな」とかいろいろ感じていることはあったのですが、一方、自分の罪深さもよく知っていたので、違和感を言葉にして意識することは避けていました。
 それが、自分の子供たちに洗礼を受けさせたことで、一度しっかりこの違和感と向き合わなければならないと思うようになりました。それで、思い切って司祭館・信徒会館に足を踏み入れてみました。そしてそこで自分の感情は押し殺し、教会の常識とされていることに従順に振る舞ってみました。その上でどうしても納得できないことははっきり言葉にしようと考えたのです。
 教会の人間関係の中でも、社会的地位、家柄、学歴が幅を利かせていました。また、主任司祭の発言、顔色一つでものごとが決まり、司祭の歓心を得ようとして振舞う人たちもあります。教会で福音のメッセージを聞くことは、私にはやはりできませんでした。
 実は、私が福音を聞いたのは、一人の少女に深手を負わせてしまった後のことです。その少女は私の息子との結婚を強く望んでいたのですが、私の強い反対で少女は思いをとげられませんでした。少女が去り、私に残されたのは、罪深く冷酷な自分の現実でした。私の決断は本当に正しかったのでしょうか。私には「これしかできなかった」だけです。そして、「神様、私にはわかりません。」と祈り続けるうち、ある時、それでもその私の存在をお創りになった神様の愛に気づきました。私の命は、罪も含めてすべてが神様の御手のうちにあると実感したのです。自分の罪深さを見据えると、同時に他の人々の命の息づかいが聞こえてきます。命の息づかいを聞くとその命に注がれる神様の眼差しを感じます。
 教会共同体は、自分たちが「清らかな、立派な」人の集まりであると考えているなら、果たして、罪深い、小さな存在になれるでしょうか。主任司祭が権力を振りかざし、それ故、司祭自身も孤独に陥り、その権力に依存したい人々と対立する人々との膠着状態にはまり込んでいるとしたら、教会の中で、人は「小さいもの」になることはできないのではないでしょうか。また、神によって「救われている」という教会共同体のメンバーが、「救われていない」「可哀想な」人に親切にする姿からは、福音は聞こえてきません。命がその躍動を取り戻す時、初めて福音が響いて来ます。
 今、私はすべての命の豊かさを次世代に伝えたいと願っています。そして、イエスだけに頼るものの小さな命の息づかいが、教会共同体に共鳴するための奉仕に、その希望をつなぎます。それが、私の罪の償いであり、神様の注がれる暖かい眼差しへの応えなのです。
〈東京 53歳女性 主婦〉
写真: 中司 伸聡
(出来事に聴く 70 2004/11/19)