祈りとの出会い
 これから述べさせていただくのは、新受洗者の足取りにおいて、祈りがどのように芽を伸ばしたかの自己回想的なご報告です。
 いまから2年半ほど前。
 「『祈る』とは、どういうことなのですか?」と、ぼくは単刀直入に、U神父様に尋ねました。神父様は「それは『神との対話』です。誰にも介入されないし、誰にも邪魔されない。」と答えました。
 当時のぼくは、カトリックに対する理解はおろか、そもそも「お祈りする」という習慣すらもっていませんでした。他方、交際しているRさんが、洗礼のための準備を進めていました。そんなRさんを見ていて、自然と湧いた疑問が「祈りって何?」だったのでした。
 「ほう。『神との対話』ねえ・・・」。興味を覚え始めたぼくは、まず、「対話」の相手がどのようなものなのかを知るべく、神父様のご指導のもと、聖書を読み始めました。
 また、同時にぼくは「お祈り」を意識するようになりました。
 聖書を読んでいくと、対話の相手がどんなお方なのかが、徐々にわかっていきます。聖書を読むだけで及ばないところは、神父様や、洗礼を受けたばかりのRさんが、ぼくの理解を導いてくださいました。また時には、泊りがけの研修会を開いてくださいました。
 それに連動して、神様との対話の内容が、どんどん充実していきました。はじめはほんの挨拶程度だったのが、徐々に語彙が増え、テーマが多様になっていきます。仕事上重大な決断を求められていたときなどは、その解決を神様とともに模索したこともありました。
 もっとも、ぼくは自由業なので、朝起きてから寝るまで「仕事漬け」となることがままあり、毎日決まった時間に落ち着いてお祈りするのは困難でした。このため、家から駅に向かって歩いているときとか、車を運転していて信号待ちをしているときなどが、「神様との対話」の格好の機会となります。
 そしてぼくは、この聖土曜日に復活徹夜典礼の中で、受洗させていただきました。
 ぼくが受洗するまで、U神父様やRさんなど周りの人々の助けがあったことは事実です。もっとも、ぼくが「祈り」に出会った後の流れを振り返ってみると、ぼくの受洗はごく自然な流れであったと思っています。やはり、非力で未熟なぼくを、神様が力強く導いてきてくださっていたのでしょう。
 これからも、より神様と対話が深まっていきますように。そして、少しでも、神様の愛に応えることができますように。
〈東京 31歳男性 行政書士〉
(出来事に聴く 80 2005/4/8)