サラリーマンと天職
 私は今年で入社17年目になるもう若いとはいえないサラリーマンです。今までの歩みをふりかえれば、神に祈って、ある企業の研究者として生きる決断をしました。識別の基準は、「自分の力を社会で役立てたい」という望みでした。入社して10年間は仕事に対して素直な気持ちで走り続けたという実感がありました。
 大きな人事異動もなく10年経とうとしていた頃、人事異動でグループ内の別の会社に転籍となりました。それからは、経験外の部署へ管理職として異動し、成果主義制度導入に伴う成果達成のため1、2年間隔で3回異動し、数々の仕事を担当し、職場の環境が慌しく変わっていきました。
 そんな環境の変化の中で、私にとっての「天職」というものが何なのかということが大きな命題となって私の頭の中の大きな部分を占めるようになりました。サラリーマンと聞いてこれが天職だと思える人は、今はほとんどいないと思います。つまりサラリーマンには定年退職がありますが、それは一生をかけて達成していく天職と相反するイメージがあるからです。
 今の私のサラリーマンとしての仕事は、成果主義制度のもとで、単純に個人評価の対象となる成果を求めるように強いられています。そのため、例えば、他の社員を精神的に助けるといったことは、全体から見れば仕事に有効であっても、評価の対象とならないので軽視されています。また、給与や賞与は固定された人件費の予算枠から支払われるため、その評価が相対的なものになり、いわゆる「勝ち組」、「負け組」が同じ社内にいる状態です。評価に満足しない社員の不満は高まり、やる気を失い、さら評価が下がるといった悪循環ができあがっています。こんな職場の中では、何とも人間味のない人間関係が拡大していく気配がします。人間同士が助け合って一丸となっているというのが理想の職場の一条件とするなら、私の職場はその理想から段々程遠くなっていく感じがします。
 こんな職場で働いている私の支えは、このような状況をいつでも分かち合い、祈り合える家族と信仰の仲間です。この分かち合いと祈りをとおして、こんな職場に召された私の中に、十字架を背負ったイエスのように貧しく、無力で、蔑まれながら職を全うするという望みが生まれてきてきました。今では、イエスのように生きるために召された職業が天職だと思えるようになってきました。60歳までサラリーマンを続けるとして、今後18年、この「天職」を生き続けることできるよう、ただ神に恵みを願い続けるのみです。
〈42歳 サラリーマン〉
* ふりかえりのヒント*
1.あなたにとって、天職とはどのようなものでしょうか。それをどのようなときに感じるでしょうか。
2.今、おかれている場で、どのような矛盾・苦しみ・困難があるでしょうか。
3.その中で、どのようなイエスの姿が現れてくるでしょうか。
(出来事に聴く 90 2005/9/23)