完膚なきまでに神に負ける
 3日間のカバルス師研修会(霊性センターせせらぎ主催)に参加する機会をいただいた。要点は、次の通りであった。
 ① 誰にも胎児・出産・幼少期の心理的「傷」があって、その傷によって、「恐れ」が生じ、恐れを隠すための無意識的対応である「囚われ」のパターンが作られ、大人になった今も繰り返されている。
 ② また囚われのために「ゆがんだ神のイメージ」が形作られ、神との関わりも妨げられている。
 ③ 自分の恐れ・囚われのパターン、ゆがんだ神のイメージを意識し、イエスの福音に出会ったとき、神のイメージが正され、傷が癒されていく。
 ④ それとともに、自分の肯定的資質の根源となっている「泉」が自分の中に実感されて、識別的な生き方へと変えられていく。
 恐れ・囚われ・ゆがんだ神のイメージは、おもに親との関わりにおける傷によるため、自分を被害者のように思いがちであるが、その囚われによって、自分がまわりの人々を傷つけ、新たな囚われをつくっているという話があった。
 この話は自分と妻子との関係にもあてはまると気づかされて、心が痛んだ。私の場合、どこか満たされない空虚感という傷があって、それを知識、資格、能力で補おうとする囚われがあった。そして神は選ばれた人のための神であって、ふさわしい知識、資格、能力を要求されるという、ゆがんだイメージがあった。
 これに対して、イエスは貧しい人、罪人を招かれ、何の知識、資格も求められなかった。確かに今まで霊操(黙想会)にあずかると、自分の力を頼みとするのではなく、ただ頭を垂れるだけで、神はわたしを受け入れてくださった。そして、神と私との根本的関係(固有の召命)は、ただ私が神に平伏すこと、空の手で用いていただくことであると示されていた。
 そして今回の研修会で、それがさらに統合され「私の傷がなかったら、私の救いはなかった」とはっきりと悟った。「今までの生涯の中で最もつらかったこと」をふりかえる中で、私の存在の奥にある源泉が、「完膚なきまでに神に負けること」だと気づかされた。
 不思議にも研修会中のミサで朗読を頼まれたエレミアの預言が、それを表していた。
 「主よ、あなたが私を惑わし、私は惑わされて、あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。…主の言葉は私の心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、私は疲れ果てました。私の負けです。」
 自分の力に頼るために生じる苦しみ、恐れ、疲れを突き抜け、神に負けることでいただく自由、平安、力を味わい、自分自身を神に捧げることができた。 
 その後、あるボランティア団体の人事問題に直面したが、精一杯解決に向けた努力を重ねながら、共に祈り、神に負けることを選んでいくと、予想もしない解決を見ることができた。これからも家庭、仕事、教会などでさまざまなことが起こるだろうが、「完膚なきまでに神に負ける生き方」を識別し、選ぶことができるよう祈り求めていきたい。
〈44歳男性 会社員〉
* ふりかえりのヒント*
1.自分にはどのような囚われがあるだろうか。
2.その囚われから解放してくれる、神と自分との真の関係はどのようなものだろうか。
(出来事に聴く 91 2005/10/7)