イエスからイエスへ
 少し前の話になりますが、ボランティアをしていた場所で、「イエス・キリストより」という大きな札があちこちに貼られた援助物資の箱の山を見ました。クリスチャン団体からの寄付だったのでしょう。これを送るのは自分ではない、イエス・キリストからの愛の贈り物であって、自分たちはその仲介をしているにすぎないのだという、送った方々の善意は良く伝わって来ました。
 でも同時に、何となくどこか落ち着かない、何かが微妙にしっくり来ない、という思いが残ったのです。もちろん私は送り主の善意を露ほども疑いません。送られた物資もきっと役に立ち、受け取った人たちは心から感謝したことでしょう。しかし、おそらく、あの札が「イエス・キリストより」ではなく「イエス・キリストへ」と書かれていたのなら、私はさらに大きな感動をもって、あの箱の山を見ただろうと思うのです。
 「イエス・キリストより」といって、その行動の主体である私を「与える神」の側に置くとき、そこに、知らず知らずのうちに自分を相手より上に位置づけてしまう危険がありはしないか。そして、自分の善意が軽んじられたり思うように感謝されなかったりしたら、腹を立てるということにもなりはしないか。私が感じた違和感は、おそらく自分の中に根深く巣食うそのような傾向=「自分と人を分けて自分を人の上に置きたい望み」の苦い自覚と関係があっただろうと思います。
 マタイによる福音書の25章31節以下で、イエスは、飢えている人、裸の人、病気の人、牢にいる人たちを、「わたし」と仰います。この、イエスが仰る「わたし」という言葉が持つとんでもない広さと深さと重さを、私はどれだけ理解しているでしょうか。私自身という“わたし”は、イエスの「わたし」に比べてあまりにも小さくて、イエスの仰ることを本当の深みまで悟ることが非常に難しいのです。この小さな“わたし”を出て、イエスの大きな「わたし」に出会うとき、目の前の世界は全く違って見えてくるように思います。仏教の「自他不二」という言葉は、そんな世界を語っているのでしょう。
 私の中のイエスに促されて、すべての人の中におられるイエスに愛を表す。イエス・キリストから出てイエス・キリストへと還っていく愛の大循環の中にいる「わたし」。その「わたし」の現実を悟る恵み、あの飢えている人、寂しい人、困っている人がイエスである、ひいては自分自身であると全身全霊で悟る恵みを、心から祈り求めます。
〈42歳女性 修道者〉
* ふりかえりのヒント*
1.人を助ける行為をするとき、どこにイエスがおられると感じるだろうか。自分の側に、あるいは相手の側に?
2.イエスにおける「自他不二」の世界をどこかで味わったことがあるだろうか。
3.そういう観点からもう一度祈りの中で、自分にも、小さな人にも、この世界のすべてにおられるイエスを、味わってみよう。
画: Autor:Gregorio Dominguez, www.encuentra.com
(出来事に聴く 93 2005/11/4)