社会的引きこもりからの・・・
 久しぶりに与る復活祭のミサは、とんでもない迫力。四旬節、ささやかではあれイエスと共に苦しみの期間を過せたからこそ、歓びの輪のなかに立たせてもらっている自分。
 僕は社会人になってからずっと教会を離れていました。去年の八月、突然仕事に行けなくなり……すべてが崩れ落ちていく、年末にはそんな感覚まで味わいました。すべてが、それこそ日が暮れていくことさえもが怖い、そんな日々。襲いかかってくる恐怖に呑み込まれないように、「自分の思い」らしきものを言葉にして書きなぐることしかできない。そして疲れ果てて眠る。そんなふうにして年が明け、恐る恐る福音書を読み始めてみました。少しでも「慰め」と感じられるフレーズをひたすらに書き留めながら。やがて聖書の言葉を自分の物にしてしまえばいいんだと思い始めました。大いなる勘違い。祈ることも聖書を読むことも怖くなりました。味わいが薄れるのが怖くて。それが最後の砦だったから。
 二月下旬、やっと気づいた、ひとりでは駄目だ、と。インターネットで昔ほんの少しだけ関わりのあった神父様の名前を探す……日帰り黙想会に参加申し込み。そして四旬節の一週前の日曜日、知り合いのいない教会のミサに与ることを始めました。ミサに与ることもまた恐怖の連続。でも「ここで逃げたら終わり」……震えながら堪える内に、恐れ自体を祈りとして捧げることを覚えました。祈っているのが自分だけではないということを大きな支えにして。そして二度の黙想。沈黙の内に祈るなかで「自分」という強張りがほどけていく、やがて恐れだけではなく、すべてを主に捧げるという感覚が生れた……
 四月初旬、駅から家への道を歩いているとき、突然咳が止まらなくなって意識が朦朧としはじめたことがあります。ふらふらになりながらなんとか歩きつづけました。座り込んだりしたら絶対もう立ち上がれなくなる。「今度こそ駄目だ」と思ったとき、幻が見えた……十字架を背負ったイエスが僕のすぐ横を、まるで僕自身のようにふらふらになりながら、無言のまま歩いている……束の間そんな幻が像を結び、ぼんやりと(僕のなかに)消えていった……「十字架の道行」のやりすぎだったのかもしれません。でも、それはリアルなイエスの姿でした。もうイエスから離れることは絶対にできない……これまでのすべては、ただそのことを心の底から、全身で理解するためにあったのだと思います。(「幻まで見せなければわからないのか、お前は!」)復活祭のミサの歓びのなかでその思いは確信へと高まり、心が動き始めました。イエスが愛してくださったように、互いに愛し合うことへと。
〈36歳男性 再就職活動中〉
* ふりかえりのヒント*
1.十字架を背負ったイエスを一番強く感じたのはどのようなときですか。
2.主の復活の喜びを一番強く感じたのはどのようなときですか。
写真: 中司 伸聡
(出来事に聴く 102 2006/4/28)