教会―感情の交差点
 教会は「感情の交差点」といっても良いかも知れない。悲しみ、喜び、苦しさ、無力さ。こうしたものが渦巻き交差している。教会の事務所にいると、神父に代わってそうしたどうにもならない感情を受け止めなければならない時がしばしばある。それが相談だったり、笑顔や涙だったり。また激昂した人の怒鳴り声であったりする。
 「誰かが泣いている」。そう、信者さんが教えてくれた。早速その現場に駆けつける。肩を振るわせ泣いている。声をかけるとその泣き声は更に大きくなった。近くにいた人とともに、その人と小部屋に移動する。聞くと、いままで本当に悲惨で辛い生活をしてきたという。そんな自分は教会に来てはいけないと思っていたけれども、今日聖堂に入った時、涙があふれて止まらなくなったという。「私は(教会に)いてはいけない」。その言葉に、一緒にいた人が小さな落ち着いた声で、でもしっかりと、「私もそんなに強い、完璧な存在でない」と話す。その人の目から、大粒の涙がまたあふれた。
 ボロボロのこれまでだったかも知れないけれども、ボロボロの私がどうにもならなくなった時に、聖堂で、また人を通して神さまに出会い、神さまがこの人の心に触れたのだなあと思った。その人がその後どうしたかは知らない。でも、ただの自分の感情だけでなく、他人に受け止められることによって(「一致」によって)、自分自身というかけがえのない、神さまから愛されている存在であることに気づいたかもしれない。私もこの人を通して神さまと出会った。こうした出会いは結構ある。そのたびに、こちらの言えることはほとんどないけれども、こういう方との会話自体が祈りだと感じる。教会で互いが祈りによって「一致」し、支えあう中で神の国が実現されていくのだろう。
 しかし他方教会は、完璧な集団ではない。妬み・嫉み、倫理観を振り回す、仲間はずれにする…。「違い」の強調は、他者の尊厳を認めること、神との出会いとは正反対である。他者への共感、想像力のなさ。それはちょうど、ゴツゴツした歪んだ形をしている石の塊のようなもので、落ち着きのないものである。
 イエスは何を伝えたかったのだろうか。苦しむ人にも、愛が間違いなく注がれていることを伝えようとしたのだ。それは「違い」ではなく、「一致」できることをともに生き、味わい喜ぶことなのではないだろうか。そのような教会共同体に成長していけば…と事務所のカウンターの奥から感じている。もちろん自分たちの問題としても。
〈40歳男性 修道者〉
* ふりかえりのヒント*
1.あなたにとって、教会はどういうところですか。
2.どのような「一致」と、どのような「違い」を経験したことがあるでしょうか。
(出来事に聴く 106 2006/10/6)