無言のめぐみに浸る
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」このみことばに支えられ、疲れきった私は放り出したくなるばかりの現実を引きずるように教会へと向う。御聖堂の扉を開けると、跪き祈っている人がいる。木椅子に蹲るように休んでいる人もいる。祭壇の片側のステンドグラスに斜めにさしこむ光――ざわつく私のこころを静め和らげていく。「休ませてください」という思いだけで、言葉が続かない。「主よ」という呼びかけだけが私の祈りになっていく。
 自分の思いばかりが空回りしていることへの苛立ちや相手への拭い去れない不信感に苛まされ、八方塞の現実に翻弄され疲れ果てている時、交わす言葉の多くは空しく、傷つけあう礫となってしまうばかりだった。人と関わりあっていくなかで言葉は美しい宝にもなるし、凶器にもなる。話すことも聞くこともただただ苦しいだけになっていた。
 私は「主よ」と心も身体も投げ出し、静けさの中へと包まれていった。ただ、それだけ――むずかる赤ん坊がいつしか抱かれた腕のなかで静かな寝息をたてるように、私のなだめ難い思いは消えていくのだった。「何故だろう?」とその変化を解き明かそうとうは思わない。不思議に思いながら、なされるままに注がれるものを受け止める。それが、神さまからの恵みなら、それに浸るだけ...。
 現実がたちどころに好転するわけではないけれど、希望が心に留まり、愛することができるようにと神さまが助けてくださるから、私は暗闇のなかも歩き出していけるのだろう。
 神さまは言葉にならない思いまでを知り、聞こえなくても大丈夫なように無言で慈しみをかけてくださっているのだと思う。
〈40代女性 信徒〉
* ふりかえりのヒント*
1.イエスの「休ませてあげよう」というみことばを実感したことがあるだろうか。それはどんな時だっただろうか。
2.静けさを実感したことがあるだろうか。その中で何かが変わっていく感触を味わったことがあるだろうか。
3.言葉でもない、思いでもない、沈黙の静けさを祈りの中で味わってみよう。
写真: 中司 伸聡
(出来事に聴く 108 2007/1/26)