神さまの計らい

??Hさん受洗に向けて―
 去年の春、わが家の玄関口で「僕、洗礼して、飲みなさい、食べなさいしたい」といきなり言われました。「えっ、神さまイエスさまのこと信じてるの」。最初、H君の本意を計りかねていました。復活祭、被昇天、クリスマス等のパーティのある時だけ姿を現すパーティ男です。
 私たちの「信仰と光」の集いでは場を盛り上げ、皆を楽しく笑わせる個性をいかんなく発揮しています。食べて飲むことと、人々への思いやりの心遣いをしながら、全体を取り仕切る天性を発揮することが、最上の喜びのように思えました。
 教会の「信仰と光」では、遠いところから一人でやってくる彼を、皆さん大歓声で迎えてくれます。憧れの女性たちに囲まれて、明るく雰囲気を盛り上げ、喜びいっぱいで料理やおやつを楽しんでいます。また、亡くなったメンバーの追悼ミサでは2年続けて奉納の役目もこなしていました。
 自分を受け入れ、認めてくれる人々やグループを探し求め歩いてきた彼の姿を10年近く見続けてきました。そして今、復活祭に洗礼を受けるため神父様から準備を受けています。聖書のお話(イエスさまマリアさま)や、ミサ聖祭、お祈りと彼の理解に合わせて・・・
 もうすぐ洗礼志願式を迎えられるまでになりました。
 作業所関係の保護者たちと会う場面でも「僕、神父様からキリスト教、祝福のこと習っているよ。」と十字を切って見せたりしました。初めての友達にも「キリスト教の祝福のこと習ってるよ。どこの教会に行っているの?」と会う人々に教会での体験を話したくて仕方がないようです。相手の人は大体きょとんとして、どう対応したら良いかわからないのです。彼なりの宣教メッセージを自慢げに嬉しそうに、言い続けている今日この頃です。彼流の福音宣教の姿を見ているようでした。
 私は信仰の恵みを率直に喜びをもって述べ伝えることへの躊躇、気恥ずかしさがある自分にはっと気づかされました。何故か、涙があふれてくるのです。何人かの知的ハンディの人たちに接していて、私の都合で拒否したり、怒鳴ったりして、ナイーヴな彼らの心を傷つけてしまうこともあります。私が非難されても仕方がないことですが・・・・。次に会った時には、もう私が負い目を感じないくらい自然に接してくれます。
 私たちは、自分を認めず、陰口を言われたとか、低く見られ損害を受けたとか、排除されたとか・・・このような体験があると、相手の人に対してすぐにこだわりなく許し理解し合えるということはごくまれだと思います。私などは、入り組んだこだわりの心理状態から簡単に解放されるということはなかなか出来ません。
 彼が40年近い孤独な人生から解放され、神さまの懐に抱かれる、恵み豊かな喜びの時を迎える日も近くなってきました。私たちには思い描くことすら出来ない主の計らい(思い)の神秘、そのものすごさを思うと胸がいっぱいになります。
 彼を通してイエスさまのみ心の中で、私たち共同体が一つになり、この世間で光り輝く存在となるよう、聖霊の助けと導きをひたすら願うものです。それは、イエスさまが最も望まれていることですから・・・
「信仰の光」とは…「信仰と光」は、知的にハンディキャップを持つ人々とその家族、そしてその友人になりたいと思う人々が招かれ集うグループです。1971年ジャン・バニエとマリーエレン・マチューによってフランスで創設され、現在(2004年)世界約78ヵ国に1500の共同体が存在しています。同じくジャン・バニエにより創設された「ラルシュ共同体」と違って、メンバーは居住を共にしていません。しかしその霊性の源はひとつです。
詳しくは信仰と光のホームページを http://www.k2.dion.ne.jp/~fandl.jp/nani/nani_main01.htm
〈東京 女性 信徒〉
* ふりかえりのヒント*
1.自分のまわりにいる小さい人びと(さまざまなハンディをもつ人たち)とつき合ったことがあるでしょうか。その人から学んだことは何でしょうか。
2.自分自身が信仰の恵みを喜びとして実感する時は、どんな時でしょうか。あるいは、そういう喜びを感じている人と最近、どこでどのように出会ったでしょうか。その喜びをかみしめてみましょう。
(出来事に聴く 110 2006/3/30)