「信じる」こと
 息子のYが「将来医者になりたい」と公言したのは4年前のことでした。その頃Yは、坊主頭で野球にあけくれる下町の少年で、誰がこの言葉を現実のものとして受け止めたでしょう。親である私ですら「いつかあきらめるだろう」と思っていたのですから。しかしYの真剣さと、「彼の夢を奪う権利は誰にもない」という思いと、「親が信じてやらないと」という夫の言葉で、我が家の「Yの医学部への道」が始まりました。
 私は、彼とその道を共に歩むことによって、「信じる」とは単なる気持ちではなく、信じる者との間に深い絆を築くこと、そこから確かな安定感と力がわき上がることを体験しました。まずはYを信じることから、そして次第に神を信じることへと。初めの1、2年「夢を持ちそれに向かって歩むこと、壁にぶつかり夢をあきらめること、そしてまた夢を見つけることはYがやること」と彼を信じ見守っていました。そこにはYに働く神の力が確かにあるということも信じていました。Yは1浪し、2度目の受験でした。今年はいけるかもと思っていたのですが、前期は不合格でした。Yの落胆ぶりはものすごいものでした。というのも医学部後期試験は倍率が高く、前期でだめということは、普通2浪を意味しているからです。しかしYは気持ちを切り替え後期の試験を受けました。
 私と夫は、夕食前の祈りの時、長い間「Yを医学部に合格させてください」と祈っていました。心のすみでは「Yの望みと神様のご計画は違うかもしれない」と感じているのに、「み旨のままに」とは祈れなかったのです。後期の合格発表まで、私は、ロザリオの祈りを毎日することにしました。ただ、ただ無になり毎日祈りました。すると何日目かに、心の奥から突然みことばが湧き上がってきました、「あなたがたの誰が、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(マタイ7・9-11)その時、今までの私たちの祈りが、どれほど傲慢で、親のエゴのかたまりだったのかを思い知らされ、自分の愚かさ、罪深さを痛感しました。その夜、「今まで精一杯やってきたんだから、出た結果が一番いい道なんだよ」とYに言えたのです。Yを信じ、神を信じて祈っていた私ですが、愚かなことに自分中心だったのです。主はいつも私たちの真ん中に立っておられること(ヨハネ20・19)を忘れていたのです。主に真ん中をあけわたすことができた時、先に私たちを信じてくださっている主を実感し、みことばは、まさに「道」であることを強く感じました。
 合格発表の当日、だめだろうとあきらめた気持ちで、息子と2人でパソコンを通して発表を見ました。すると、何と息子の受験番号が合格者リストの中にあったのです。
 私は神に感謝し、泣きながらYの頭をぐしゃぐしゃになるまで撫でました。みことばは、道であること、それは自分の全てをあけ渡し、神を信じ祈ることによって実際の生活に現れることを思い知らされました。全てを神にゆだね「み旨のままに、あなたが与えてくださる道を歩みます」と祈れた時、医者への道も開かれました。この道を歩んでいく息子、見守る私に、神は、また多くの気づき、恵みを与えてくださると信じています。
〈東京 48歳女性 主婦〉
* ふりかえりのヒント*
1.あなたにとって信じることとは、どういうことでしょうか。信じることが本当にピンと来たのはどんな時でしたか。
2.望んでいることを得ようとして期待する祈りと、希望し、信頼して委ねる祈りとはどのように違うのでしょうか。
3.あなたは、この二つをどのようなバランスで祈っているでしょうか。
写真: 中司 伸聡
(出来事に聴く 112 2007/4/27)