主とともに、苦しむ人とともに
 先日、ある人が、昨晩のテレビを見、苦しくてその夜は泣きはらしてすごしたと分かち合ってくださった。彼女が見たテレビというのは、カンボジアの9歳の小さい子どもが、地下に掘った穴に梯子もなく、両手両足でつたい降り、金が含まれている可能性のある土を入れ物にいれ、また地上まで這い上がり、土に金が含まれていたなら、僅かなお金がもらえるが、なければ何ももらえず、従って重労働の後に食べることもできないみじめな生活、北朝鮮から脱出しようとして捕まった子どもが、舌を針で引っ掛けられ、血だらけで連れて行かれたこと、ヒィリッピンで、僅かなお金が欲しくて、臓器を売るために手術をまって並んで待っている子供たちのこと、などなど・・。「どうして神様!と叫んで泣いて泣いて眠れなかった」「私は貧乏でお金がないけど、飛行機代があったら、飛んで行って助けたい。」「健康があれば行って井戸を掘ってきれいな水を飲ませてあげたい」などとしょんぼりしながら、いかにも無念そうに話してくださった。生活保護を受けていながら、2000円あれば1000円をより困っている人に使う彼女に“貧しいやもめの献金”を、苦しむ人に共感する彼女の苦しみに触れて、自分の“熱くも冷たくもない生ぬるさ”を自覚させられ、ラザロと金持ちのたとえ話にある金持ちの姿が自分と重なってきた。自分の罪深い過去を悔やみ、“本当に罪人である”という自覚をしっかり持っておられる彼女に、賢明という名の下に道を外れない無難な生き方をしてよしとしている自分、それとは対照的な彼女に“多く許された人は多く愛する”というみ言葉の真実を見る気がした。熱い愛をもって生きている彼女が羨ましいほどにまばゆく、深く感動させられた。主は、福音を生きている彼女を通して、私を揺さぶり、呼びかけ、問いかけてくださった。この一時を忘れることはできない。
〈60代女性 無職〉
(出来事に聴く 118 2007/7/27)