共にいる
 先日、七年ぶりに大学時代の友人に再会した。私が修道会に入って以来のことだ。もう私のことなどは忘れているだろうと思っていたのに、「ずっと心の支えにしていた。」と言ってくれた。この友人は後でこんなことを書いてくれた。「・・・何で淳君が私たちにとってこんなに支えになってくれてきたんだろうと考えていて、何かができるから、何をしてくれるから、ではないんだなあと思いました。doingじゃなくて、beingなんだろうなあと・・・・」
 この言葉は、最近、ちょうど私が考えていたことと重なっていたので不思議な思いだった。
 私は、先月もう一人の神学生と一緒に中国を旅行し、そのプログラムの一つとして、漢中という町はずれにあるハンセン氏病の施設で、8日間のボランティア体験をした。そこでの私にとっての一番苦痛は、“何もすることができない”ことだった。専門的な治療行為ができない、何よりも言葉が通じない。そこで働くシスターの共同体に滞在させていただいたが、シスターたちも英語を話されず、私たちは、食事の時も自然に無口になった。患者の方々の住居を訪問しても、現地で合流したシンガポール人神学生の通訳を介しての会話はもどかしかった。状況は、私たちをdoingではなくbeingを余儀なくさせた。最後の夜にシスターたちと体験の分かち合いがあった。シスターたちは、「訪問してくれただけで、共にいてくれるだけで患者さんは喜ぶのですよ。あなたたちは幸せを運んできてくれました。」と言ってくれました。
 何かをしてきたという実感を得ることはできなかった。しかし得たのは、“beingとは何か”という課題だった。帰国してから、中国とのつながりを一回限りのものにしたくなく、毎日曜日、上野にある中国教会に奉仕作業に通うことにしている。「ここでは、何もできないな、と思うことが多いでしょうけれどそれも大切なのよ。」とそこでも日本人シスターに同じことを言われた。
 この課題に対して、少なくとも今言えることは、私たちは、とかく何かをしなければならないと思いがちで、何もできないと必要とされていないのではないかと思い、また他人もそのような目で見て、あの人はこれができる、あれができるという評価をしてしまう。
 神もそうだろうか。神はその人の存在、ありのままのその人をそのまま喜ぶ。神の眼差しと出会い、この神を体験的に知るなら、神と同じ眼差しで人を見ることができるようになる。確かに、このような人と出合うだけで、存在を思い出すだけで希望を得たり、励まされたりすることを体験している。友人にとって私が少しでもそのような存在であったことは、正直嬉しかった。離れていた時も共にいたのだなあ~としみじみ感じさせられた。
〈イエズス会神学生 32歳〉
* ふりかえりのヒント*
1.大小の壁へのぶつかり、誤解、癒され難い受けた傷、失望などは生きるうえで避けがたいものです。これらがきっかけとなって新しい生き方、価値観へと導かれた体験がありますか。
2.同じような状態にいる友人、後輩などがいるとしたら、その人にどのように関わり、助けることができると思いますか。
写真: 神学生の出発寸前。最前列の少女は悲しんで泣いている。
(出来事に聴く 123 2007/10/5)