十字架称賛の祝日に
 高齢者福祉部門の仕事で日々の多忙さと緊張に疲れて、十字架称賛の祝日を迎えました。前日から「明日こそは終業時間に帰ってミサに与ろう」と決めていました。一日中訪問やカンファレンスをこなし、終業時間前にやっと席に戻ったら、机には知らない方から緊急対応依頼が‥対象は80歳代のご夫婦。「せっかくミサに与るつもりだったのに」と、ほっとしたかった私は内心イライラしていました。
 訪問すると、介護知識がなくただ入院がいやで不適切な介護を続けた結果悪化させてしまった奥さんと、その為に脱水と肺炎を起こしやっと息をしているご本人が居ました。その姿を見た時、往診したのに強く入院を勧めなかった主治医と、この状態まで連絡をしなかったケアマネージャーに強い憤りを感じました。頼りにできる人もいず、本当は、奥さんはどうしてよいかわからなかったことが分かりました。私の立場でできることをし、電車に乗っても翌日から連休に入るので気になり、念のため携帯で状況を確認し指示を入れて教会へと急ぎました。
 ミサに遅れてがっかりした私は、聖堂に入ると目の前に座っている友人を見て「初めからミサに与れるなんていいなあ」と祈る彼女の背中を見ながらうらやましい気持ちになりました。ミサの間、「私は今日一体どこであなたに出会ったのでしょうか?」と聖堂正面の十字架上のイエスに問いかけました。ミサが終ってから、どうしようもなくなっていたあの時、あの所にイエスはおられ、私はそこでイエスに出会ったのだと気づきました。
 このことに気づいて、ミサに遅れたこと、ケースへの怒り、疲れなどはすっかり消えうせて、身も心も軽くなり、イエスご自身と出会えた嬉しさと感謝が溢れてきました。帰り道、私が背中を見た友人から「何か良いことがあった?そんな顔してるけれど」と声をかけられました。イエスと出会った顛末を話すと「日常生活の中でイエスと出会っているのに、私たちは気づかないんだよね、そのことに気づけば生活はどんなにか変わるのにね」と言う彼女に私も心から同感しました。
 一人になってから、こんな鈍い私を使おうとなさる愚かにも見える神様のやり方だけれど、私を信頼し愛してくださる神様の愛って限りないのだなあと思いめぐらしながら帰途につきました。
 日常生活の中で、気づくこと、身につくことはほんの一部分でしかないけれど、今日働いてくださっている神を丁寧に読み取って生きたいと思いました。
〈30歳代 女性 保健師〉
* ふりかえりのヒント*
1.同じ出来事でありながら、出来事の渦中にいた時と、祈りを通してからとではどんな違い変化があったのでしょう。なぜでしょう。
2.見過ごして、あるいは通り過ぎてしまいがちな日常生活の宝に気づき、深みに気づくためにはどんな手段をとることができるでしょうか。
(出来事に聴く 125 2007/11/2)