靴の修理
 よく歩くので靴底修理が必要になる。修理費は高くつくが、足のために履き易い靴を大切に修理しながら使うのとたくさんある安い靴を使い捨てにするのと果たしたどちらがいいのだろうと戸惑う。
 先日、新しい靴を買うよりも修理費が少々高くても修理して使おうと決めて、数回行ったことのある靴屋さんに持っていった。愛想よく、「今日の内にできますよ。」と言ってくださったもののその日の土曜日にもう一度はこれない。火曜日以外ならいつでということで前払いをして帰った。仕事帰りの水曜日に靴をとりに行くと靴が見当たらない。記憶力抜群のおじさんなので不思議に思っていると「あっーあそこだ!」とおじさんが指差されるところを見ると修理しないままの私の靴が壁にぶら下がっていた。いやな気持ちになった。「今からすぐやりますよ」といわれても小さな修理ではない。時間がかかるし夜急いで帰る途中なので待つ気にもなれない。「急いでいますのでまた来ます。」といって帰った。帰り道またその夜も“いやな感じ”で虫の治まらないやけに落ち着かない自分があった。
 別にその靴がないからといって困らないのになぜ、そして何にこだわっているかと思い見てみると“おじさんは約束を守らない、それなのにお詫びの一言もない、またあらためて出直させるのに人に迷惑をかけても平気でいる。靴はいつ取りに行こうか、何事もなかったかのように普通にするか、これからは別の靴屋さんにしようか。” などとぐるぐると小さなことに振り回されている自分を見てまた“いやな感じ”になった。
 そんな自分をそのままイエスに差し出た。イエスならこの出来事にどのように、対処されるのだろうと思った瞬間、僅かなことに自分の都合で相手に要求し、相手を責めている自分、問題のないところに問題を作って自分で自分を縛っているのが見えた。するとおじさんへのわだかまりがなくなり、“いやな感じ”が晴れやかな気持ちに変わった。確かな聖霊の働きを実感した時だった。
 翌日靴をとりに行くとおじさんは外でタバコ吸っておられたが、すぐに気づき「どうも済みませんでした。」と明るい、やさしい笑顔で靴を渡して下さり、「どうもありがとうございました。」といつも通りだった。「これでよかった」と同じ帰り道は前夜とは違ったさわやかな気持ちだった。この日常的なささやかな出来事を通して、ありのままの感情を正直に見てそれをイエスに差し出し、イエスに聴けばいい。イエスが光を当て正直な自分を見せてくださり、そこから自由と解放へみちびいてくださるのだとあらためて実感した。
〈60代女性 ボランティア〉
* ふりかえりのヒント*
1.日常的なことで、いやな感じ、もやもやした感じが余韻として残る出来事がありましたか。どんなことでしたか。
2.そんな時どのように対処しましたか。同じような状況にまた出会うならどうしたいと思いますか。
(出来事に聴く 129 2008/2/1)