幸せのレシピ
 父が亡くなったのは、吐く息が凍る2月の寒い朝だった。東京の大学院で勉学に明け暮れていた私は、急遽、家族の住む田舎に戻った。50年の生涯を共に過ごした伴侶の死は、70を超えた母には大きな打撃で、突発的難聴に襲われ、葬儀屋さんとの会話も役場の人との対話も私の通訳なしには用をなさなくなった。障害を持つ兄も余りのショックで口から泡を出しながら話すようになった。勉強は辞めて、家族の支えとなるべきなのか。東京での講師の口も内定していただけに、複雑な気持ちだった。大学院の先生方からは毎週のように、勉強会やセミナーのお誘いがメールで流れてくる。仲間たちからも親睦会や飲み会のお知らせがパソコンに入ってくる。どれにも参加できない。今日は年金の手続き、明日は郵便局の名義変更、スーパーに買い物。夢を描いた東京が、野心を抱いた勉学がどんどん遠くなっていくのを感じた。
 そんなある日、台所での私の悪戦苦闘。父がいた頃は、母は嬉々として台所に立ち、父は傍らで早めの晩酌をしていた。父のいなくなってからは、料理をするのは辛いのか、居間のソファにちょこんと正座し、料理ができるのをじっと待つようになった。私は料理が苦手だ。東京での寮生活には食事がついていた。私にとって、食事を作ることは二次的なものに過ぎず、そんな暇があったら勉強したい。そんな私が、「ぶりの照り焼き」と格闘している。「今日の料理」をじっと睨みながら、フライパンにあるぶりに焼き色をつける。初めての「ぶりの照り焼き」。焼き時間が長すぎたのか少し固めで、しかもたれが煮詰まって焦げ臭い。母も兄も私のこんな手料理を「おいしい」「おいしい」と言って食べてくれた。兄なぞは「美津子は何でも作れるから助かるよ」とにっこり微笑んでくれる。今までに感じたことのない満ち足りた思いが体中に沁み通った。
 私は、大学院で何を学んでいたのだろう。自分の虚栄心を満たすだけのものだったのではないだろうか。台所で魚を焼く、その単調な仕事に愛がこめられたとき、尊くも意味のある仕事となり、幸せな笑顔を運んでくれる。この出来事は私に真の幸せとは何か、愛とは何かを教えてくれたような気がしてならない。聖書の言葉が浮かんできた。
 「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい。」(一コリント13・2)
〈42歳 女性 高校教師〉
(出来事に聴く 134 2008/4/4)