兄から教わったこと
 お正月休みも終わり、そろそろ仕事モードに切り替えなければ。わかってはいるのだがなかなかふとんから起き上がれない。電気あんかに両足をあてて、ぬくぬくとした毛布にじっとしている。あーあこのまま一生仕事などしないで済むのだったら。と、叶わぬ夢想に耽る。そんな駄目な私だが、最近、「はっと」させられる出来事にたびたび出くわすようになった。それは障害を持つ兄と毎日生活を共にするようになったからではないかと思う。
 兄は生まれつき身体が不自由だ。母の出産の事故が原因で、左の脳に障害を持って生まれた。私たちは普通、お茶碗を左手に持ち、右手に箸を持ってごはんを口に運ぶ。しかし兄の右手は折れたまま開かない。お茶碗はテーブルに置いたまま。左手で箸を持ち、上半身をかがめ、顔をお茶碗に近づけて、ごはんを口に運ぶ。姿勢のせいか、ものを詰まらせることもある。右半身の麻痺は、右目にも及び、網膜剥離までも患わせることとなった。視界が悪い上に、右足をひきずる。兄はいつも物につまづいたり、メガネをドアにぶつけたりしている。
 先日、兄と一緒に郵便局にでかけた。そのとき、印鑑を持っていくのを忘れてしまった。私は兄が必要事項を書いている間、車で印鑑を取りにいこうと思っていた。ところが兄が真剣な顔で「お願い、ここにいて」という。「え?ひとりで書けないの?」よくよく兄の動作を見てはっとした。普通私たちは用紙に何か書くとき、左手で用紙を押さえて、右手でボールペンを持って書く。しかし、兄は紙を押さえる右手が使えない。そうか。そうだったんだなと思い、私は兄の用紙の右の端っこをぎゅっと押さえた。そうすると、兄は身体を斜めに重心をとりながら、一字一句、手に力をこめて、間違えないようにもう必死で書いていた。そこには手抜きとか「楽をしよう」とあれこれ企む心の余裕などなかった。
 テモテへの手紙に「私は戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や義の栄冠を受けるばかりです。」(ニテモテ4・7-8)というのがある。これはパウロが殉教する直前に弟子のテモテに書いた手紙だ。この聖書の箇所は私たちの日常生活にあてはめて考えることができるのではないか。私たちはこんなふうに自分に課せられた道を毎日力いっぱい走っているだろうか?毎日の課題に全力で取り組んでいるだろうか?神様からいただいた五体満足の身体。怠けることばかり考えて力の出し惜しみをしてはいないだろうか?思い通りに動かない身体をひきずり、時には転んで怪我をしながらも、ひたむきに毎日を生きている兄。そんな兄の姿を見て、自分自身の弱さ、甘さを悔やんだ。人生の終わりに、この聖書の箇所に出てくる祈りが心から言えるような生き方をしたいものである。
〈群馬県 40代女性 教師〉
写真: 片柳 弘史
(出来事に聴く 136 2009/1/23)