他人のおが屑

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 夏休み、仕事から解放されて家にいると、世間の噂話など耳にすることがある。朝食の皿洗いをすませ、母と居間でテレビを見ていると電話が鳴った。電話に出ると聞き覚えのある声だ。「お母さんお願いします」。
81歳の母は近くにある長寿センターでボランティアをしている。お風呂の入場券(100円)を販売するのが主な仕事だが、月曜日の班長をしているため、思いがけない人間関係に頭を悩ませることがあるらしい。今日は火曜日、母の仕事はないはずだ。火曜日の班長であるEさんが何の用事だろう。「え?やくざ?」「女?」母とは無縁と思われる言葉に思わずどきり。電話を置いた母は苦笑をして、静かにため息をついた。
  母がリーダーをしている月曜日は、A先生(昔高校の教師だったらしい)という機械いじりの得意な男性がカラオケの世話を長年していた。ところが最近体調をこわし、センターに来られなくなったため、カラオケ係が不在のままであった。そこに隣町からSさんという70代の男性が助っ人に来てくれた。母はSさんに大いに感謝し、お茶の時間になるとカラオケ部屋のSさんのところにお茶を運んでやったらしい。ところが最近になって常連のお年寄りから母のお茶運びが非難の的になったというのだ。「あの人は昔、女房がいるのに女を作った人だよ」「商売でやくざと関係したこともあるんだって」。Eさんの言葉に母は別段気落ちしているようすもなかった。ただ「人間関係ってめんどくさいね」と語った。「お母さん、何も知らなかったし、ただその人にありがたいと思ってお茶を運んだだけなんだよ。でも周りの人に嫌われるのはつまらないよね。もうお茶は持っていかないんだ」。
  なんとこの世はイエス様の教えからかけ離れているのだろう。母の優しい気持ちが尊ばれないこと。またそれ以上にこのSさんへの世間の冷たい裁き。確かにSさんは道徳的に悪い行いをしてきたのかもしれない。特に、やくざと関わってきた人とは関わりにあいたくないし、仲間から排除したいという気持ちが湧くのは当然のことであろう。しかし隣町からはるばる来て、カラオケの準備や後片付けをしてくれているのである。休憩に麦茶一杯ごちそうになってもよいではないか。昔の過ちを反省し、自分は生まれ変わって人びとに奉仕したいと思っているかもしれないと考えるのはあまりにお人好しであろうか。今までの人生で一度も罪を犯したことがありませんと胸を張って言える者がいったい何人いるのか。
聖書の言葉が浮かんだ。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(マタイ7章3節)。

<群馬県在住 40代女性>
振り返りの祈りのヒント

*自分は善意でやったことが非難の的になったことがあるだろうか。あれば、そのときあなたはどんな態度をとっていただろうか。その時の気持ちを振り返ってみよう。
*人のことをうわさ話だけで判断し、非難してしまうことはないだろうか。
*Sさんを裁くことなく、またEさんも裁くことなく、誰をもゆるしを与えて行かれるイエスの姿はどのようなものだろうか。