神との内的一致を求めて
「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」(マタイ6・6)
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11・28)

■系譜
 私たちが自分自身の内面とそこにおられる神の現存に心をこめて耳を傾ける時、心の中におられる愛する方へとみちびかれます。それは、キリスト教的観想の系譜の中で、心の祈り、後に観想の祈りとして、知られるようになりました。大聖グレゴリオ教皇は、これを“愛によって注がれた神の知識”と呼びました。
 古代の砂漠の修道者たちは神の国で完璧な生き方をするために神を求め、イエスが教えられた貧しい生活を求めて、ローマの文明都市を後にしました。しかし、まもなく、彼らは自分たちが蔑んでいた都市生活、文化、価値観などを捨て去ったつもりでいたにもかかわらず、実際には、それらのものを携えて砂漠に来ていたことに気づきました。そして、神を探し求める者が、神の現存のうちにとどまる生活をしたいならば、自分の誤った考えや望みから解放されなければならないということを学びました。神を探し求める人は、理性や知性で神を理解するのではなく、心の祈りを通して“心”の中におられる神に自らを開いて、そこにとどまることを学びました。
 聖書のことばやイエスのみ名を呼吸に合わせて繰り返すことは、心の中の気づきや意向につながる手段として用いられます。そして、この“ことば”を通して内なる神の現存へと自分自身を明け渡すことによって、絶えず内なる神の国にとどまることができるのです。

■実践
 人間の自然な動きとして、私たちは人生の方向性や決断といったものを自分自身の存在の中心、内的源泉において求めるものです。
 M.トンプソンは、心の祈りを頭から心へと私たちを移行させる祈りだとしています。
 ジェラルド・メイは、ことばやフレーズを祈りの間に自分自身の内に深く植えつけることが、心の祈りの基本であると言っています。そうすると、一日の他の時間や活動の最中にもそれが続いているのに気づくでしょう。
 「不可知の雲」の著者は、観想の祈りを神に向かう赤裸々な思いであるとしています。神に向かって自分のあらゆる願いを集中させたいならば、一つの短いことばを選んでみてください。そして、それがしっかりとどまるよう心の中に植えつけてください。このように、“心の祈り”は、私たちの存在の中心である心の中におられる神との内的一致の実践なのです。祈りに必要な条件は内的沈黙を育てることです。そして、この祈りは私たちの忠実さによってはかられます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。・・・たたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ7・7) この祈りの本質は、深い信頼と自己を明け渡すことのうちに“心を尽くして神を愛する”ようにというイエスの命令を果たすことなのです。

■ガイドライン
1. 場所の設定 : 誰にも、何にも妨げられることなく、神と深く交わるのに助けとなる静かな場所を選びます。 
2. 時間帯 : 沈黙の祈りに助けになり、眠くならず、誰からも邪魔されないような時間帯を選びます。例えば、早朝や夕方の早い時間など。 
3. 姿勢 : 背筋を伸ばして座り、腹式呼吸で深呼吸をします。人によって椅子に腰掛けて祈るのが落ち着くでしょうし、ベンチやクッションの方が落ち着くという人もいるでしょう。手の平は上に向けるか、下に向けるかして、腿の上に置きます。 
4. 準備 : 沈黙の雰囲気に入っていくのに助けとなるような短い祈りのことばを選びます。
    「主よ、あなたにささげます。」
    「神よ、あなたは私の逃れ場。」
    「主よ、あなたのうちに平和。」・・・など。 
5. 祈りの長さ : 20-30分ぐらいが適当でしょう。 

■方法
1. ことばの祈り
 神と一致したい、神に自分自身をささげたいという望みを表すようなことばを選びます。短いことばやフレーズであるかもしれません。あるいは、イエスのみ名であるかもしれないし、イエスの祈り(Jesus Prayer)の形であるかもしれません。何回も繰り返し、絶えず、そのことばに戻るようにします。息を吐く時に、ことばを繰り返して、そこに戻るようにしてみましょう。考えや望み、判断などに取り合わず流して、それらに巻き込まれないようにして、絶えず、ことばに戻りましょう。ことばやフレーズを通して、自己を明け渡す望みのうちに、神の現存と共にあるために。それは“考えることから解き放たれて、ことばに戻る”という絶え間ないプロセスなのです。 

2. 呼吸の祈り
ことばの祈りの場合と同様に、解き放たれて、内なる神の現存に自分自身を明け渡すよう、今度は呼吸を頼みとします。特に、多くの人にとって吐く息が頼み綱になります。吸う息は神に対する開きと感受性を象徴的に表わし、吐く息は、神への全き自己譲渡を表わします。それは、心の祈りとしての聖なる呼吸の本質なのです。 

3. 見つめる祈り
 人によっては呼吸やことばを用いることが妨げになるかもしれません。そのような人たちは内なる意向をもって“神を愛のまなざしで見つめる”十字架の聖ヨハネの方法にひたすら倣うことがよいかもしれません。ただ神を愛をもって見つめ、神からも愛をもって見つめられることを望むのです。

  ことばと呼吸を同時に用いて祈ることもできます。祈りのことばとして、ヘブライ語で“イェッシュアー”というイエスの名を選んでみます。息を吸い込みながら、“イェッシュアー”の最初の部分“イェ”を心の中で繰り返し、ゆっくり息を吐き出しながら、“シュアー”と繰り返します。これは、息を吸う時、神を受け入れるという意向を、息を吐き出す時には、神の愛に自分自身を委ねるということを内的に表わすのです。こうして、神の現存と私たちに対する神の自己譲渡の愛を究極的に表現する“イェッシュアー”というイエスの名において神と一致するのです。

■まとめ
 上述した三つの方法はどれも心の祈りの生きた形です。一つひとつは、あらゆる考えや知的、情緒的活動から“解き放たれて、戻っていく”という過程を通して神への明け渡しと自己譲渡を深めていくプロセスなのです。そして、時とともに私たちは考えることをやめるのではなく、そこから解き放たれ、自分の考えよりももっと深い神の現存における内的沈黙のうちに憩うことができるようになっていくのです。私たちが考えをもっているのであって、私たち自身が考えではないことを体験するようになります。私たちは沈黙の祈りの実践であろうと日々の絶えざる祈りであろうと、神に自らを明け渡し、そこに逃れ場を見出す自由を持っているのです。私たちは自分の本当の住みかは自らの内にある神の国であり神の住まいである自分自身の心であることを知るようになります。私たちは神の現存とその自己譲渡の愛において神と一致する時に心の聖所において、神と共にあって、自分を与える愛の心の器を育てていくことができるのです。
 ギリシャ正教のカリストス司教は“心の祈り”について次のように述べています。「天の国は私たち一人ひとりの内にあります。祈ることは単純にこの心の内なる神の国に入って、神の前に身を置き、神の現存を意識することです。絶えず祈るとは、絶え間なくこれを行うことなのです。扉は私たちの前にあり、その鍵は私たちの手の中にあるのです。」と。
William T. Ryan, “PRAYER OF THE HEART”より抄訳
(生活の霊性-生活の霊性 7)

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