20161015161109.JPG 2016/12/25  主の降誕(日中) 

  第一朗読  イザヤ書 52・7-10
いかに美しいことか

山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。

彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え

救いを告げ

あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。

その声に、あなたの見張りは声をあげ

皆共に、喜び歌う。

彼らは目の当たりに見る主がシオンに帰られるのを。 

歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。

主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。 

主は聖なる御腕の力を国々の民の目にあらわにされた。

地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ。  

  第二朗読  ヘブライ人への手紙 1:1-6
 神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。 御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。 御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。 

 いったい神は、かつて天使のだれに、

 「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」

と言われ、更にまた、

 「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」

と言われたでしょうか。 (むしろ、)神はその長子をこの世界に送るとき、

 「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」

と言われました。 

  福音朗読  ヨハネ1:1-18、または1:1-5, 9-14

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

   《神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。》

その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

  言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

  《ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。》


黙想のヒント

 『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。

 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。』(ヨハネ1・1、4-5)


 この間、ある黙想の家のチャペルに、素敵な掛け軸が掛かっていた。

書道の人は先のヨハネ1・4-5を次のように訳した

「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光に打ち勝てなかった」。

この掛物の訳は良かった!私はクリスマスの“打ち勝った”喜びのニュースをより深く感じた。


 人間が一番強く求めているもの、つまり命、光、愛は、“ただの恵み”として、上から与えられる。

今日のヨハネ福音書によると、イエスの誕生は神の言として、

新しい創造のように真の命、光、愛をもたらし、

しかも、私たちの間に“テントを張った”。このことばは旧約聖書では

「幕屋に、イスラエルの民の間に“臨在する”神」を表すのである。


 言が肉となり、テントを張ったイメージはキリスト教の本質を示唆する。

神的な「言」は人間のもろさ(肉)に宿り、私たちの間にテントを張り、

過ぎ去る旅人の姿となり、文字通り同伴者になった。

これは私たちの信仰のユニークさを現し、クリスマス最高の喜びのニュースである。


 今日のヨハネのメッセージは私たちを再び“馬小屋”へ導くといっても過言ではない。

その馬小屋から十字架の死に至るまで言は肉となり、ナザレのイエスとして私たちの間に宿られた。

『わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、

恵みと真理とに満ちていた。わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、

恵みの上に、更に恵みを受けた。』(ヨハネ1・14、16)


 洗礼者ヨハネは神から遣わされ、イエスについての証人として、主の道を準備し、

その道をまっすぐにする役割を果たしていく。イエスの弟子である私たちは、

イエスの満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けた証人として呼ばれている。

ナザレのイエスにおいて“肉となった”神の愛のドリームが

私たちの中にも“受肉”しているかどうか、クリスマスの課題である。

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(日曜日のみことば 2016-12-25)
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