20170216102614.jpg 2017/3/5  四旬節第1主日 

  第一朗読  創世記 2:7-9、3:1-7
 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。

 「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

 女は蛇に答えた。

 「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」蛇は女に言った。

 「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」 

 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

第二朗読  ローマの信徒への手紙 5:12-19
 (皆さん、)一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。

《律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。

    しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。》

  一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。

福音朗読  マタイによる福音書 4:1-11
 (そのとき、)イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。

 「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』

と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。

 『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』

と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。

 『あなたの神である主を拝み、

   ただ主に仕えよ』

と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。


黙想のヒント

私たちは、自分が主である神から頂いている恵みを「自分の力」と時々勘違いをすることがあります。

たとえば、「あなたが医者ならこれができる」「教師ならこんなことができる」と、

「あなたが○○なら、こんなことができる、あんなこともできる」と、

悪魔は、私たちにささやきかけることがあります。


悪魔は、さも当たり前のように私たちを誘惑してきます。

しかし、この誘惑に陥ったとき、

「私は、医者だからみなから敬われ、称賛を受けている」と勘違いをするのです。

気がついた時には、初心を忘れ、お金のために、自分の満足のために、

主なる神から頂いた【恵み】を使うという傾きに陥ってしまいます。


イエスも同じように「もしあなたが神の子なら、……」という誘惑を受けます。

イエスは、4040夜断食をし、空腹を覚えられていました。

食欲は、人間として一番身近な【欲求】でしょう。

ましてや、イエスは、断食されて食欲も限界だったことでしょう。しかし、イエスは、

「人はパンだけで生きるのではない。かみの口から出るすべての言葉によって生きる」

【みことば】を使われて、悪魔の誘惑を退けられます。


イエスは、ご自分が受けている【誘惑】に対して、すべて【みことば】を使われます。

それは、「自我」から出る危険を避けるためではないでしょうか。


私たちの中で、「『誘惑』を受けたことがない」という人はいません。

「あれが食べたい。きれいな服が着たい。お金持ちになりたい。人からよく思われたい。……」

とあげたらきりがありません。


もちろん、これらの【欲求】は、私たちを豊かにし、生きるために大切なものです。

ただ危険なことは、これらの【欲求】によって得られる恵みを

「当たり前」と勘違いしてしまうことではないでしょうか。


私たちは、生きている中で様々な悪からの【誘惑】にあうことでしょう。

そんなとき、「私の中におられる『イエス』は、どう答えているのかな」と

ちょっと振り返ってみることもいいかもしれません。

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(日曜日のみことば 2017-03-05)
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