20170226100927.jpg 2017/3/19  四旬節第3主日 
                
  第一朗読  出エジプト記 17:3-7
  (その日、)民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。

 「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」

 モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。

 「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」

 モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。

第二朗読  ローマの信徒への手紙 5:1-2、5-8
  (皆さん、)わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

福音朗読  ヨハネによる福音書 4:5-42
 (そのとき、イエスは、)ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

 《イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、」》

 「あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」 

  《ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」》

さて、その町の多くのサマリア人は、《「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、》 

イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」




黙想のヒント

 いのちの水。

それは、キリストの心からあふれ出る愛情のほとばしりにも似ているのかもしれません。


 旧約時代に、モーセに率いられて、エジプトの抑圧から抜け出すべく

荒野を旅したイスラエルの民。

彼らは、のどの渇きで苦しみ、不平をもらします。

私たちも、現代の空虚な砂漠のような日々のまっただなかで、目先の不便さを嘆きます。

イスラエルの民と今日の私たちには、何か共通する要素があります。

そして、新約時代にキリストが来てくださり、悪からの解放を実現しているにもかかわらず、

私たちは相変わらず自分の都合で生きようとしています。 


 ともかく、相手がどのような態度をとるにせよ、

キリストは相手を理解して、いのちを惜しみなく捧げつくして相手を活かそうとします。

相手の渇きを全力で満たすキリストのけなげな愛情の注ぎ。

その尊いわざによって、私たちは今日も生きることができます。

これほどの恵みは、他にはないでしょう。

そのことに、パウロが敏感にも気づいていました。

私たちもパウロのように純粋にキリストの姿を実感できますように。


 「その水をください」とサマリアの女性は叫びます。

真剣な叫び。その全身全霊の望みは、彼女の渇きを満たすキリストの愛情深さによって、

ていねいにつつみこまれます。

やさしく、やさしく、キリストは語りつづけ、相手から聴きつづけ

ゆったりとしたひとときをいっしょに過ごします。

よろこび。とこしえの。決して色あせることのない、愛情に満ちたひとときが、

たしかに、そこに、ありました。キリストは私たちにも、

誰かを満たす愛情の力を与えてくださっています。

洗礼をとおして。あとは、私たちひとりひとりがていねいに


すなおな心持ちで誰かのそばにいっしょにいることだけが必要なのでしょう。


 なお、まるで水のように正直に澄み渡り、

透明で順応性の高い聖ヨゼフの聖徳のあふれを想い出すことも、

今日の一日にはまことにふさわしいことでしょう。

相手の心をうるおす「いのちの水」の豊かさをあかししつづけた聖ヨゼフの生き方は、

まさにキリストの保護者として最もふさわしい模範として

今日の私たちの心をもつつみこんで安心させてくれるのでしょう。

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(日曜日のみことば 2017-03-19)
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