20170317105636.jpg 2017/4/30  復活節第3主日 

  第一朗読  使徒言行録 2:14、22-33
 (五旬祭の日、)ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。ダビデは、イエスについてこう言っています。

 『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。

 主がわたしの右におられるので、

 わたしは決して動揺しない。

 だから、わたしの心は楽しみ、

 舌は喜びたたえる。

 体も希望のうちに生きるであろう。

 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、

 あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。

 あなたは、命に至る道をわたしに示し、

 御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』

 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、

 『彼は陰府に捨てておかれず、

 その体は朽ち果てることがない』

と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。

第二朗読  一  ペトロの手紙 1:17-21
 (愛する皆さん、)あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。

福音朗読  ルカによる福音書 24:13-35
  この日、(すなわち週の初めの日、)二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。




黙想のヒント

メル・ギブソン監督の『パッション』という映画は

イエスへの拷問のシーンがあまりにも酷くて

直視することができなかった


マーティン・スコセッシ監督の『サイレンス』という映画の中にも

日本の信者たちが迫害を受け、殺されるシーンがある

海の中に立てられた十字架

磔にされた三人の男たち

苦しくって辛い

不条理の死ほど辛く苦しいものはない


これら二つの映画『パッション』も『サイレンス』でも

どちらも観るに耐えられない時間を

暗闇のなかで過ごした


なぜ罪のない人がこのような目に合わねばならないのか

なんのために?

果たしてわたしはどうするだろうか

拷問に耐えられるだろうか

もしかしたら、あっという間に死んでしまった方がいい

などと、考えたり

拷問の場面は目を閉じて、美しい場面だけ観る

などと、決め込んだり

身動きのできない映画館の中で

実は大きなチャレンジを受けている

神さまの愛の働きを観るように

ちゃんと直視するように


エマオを歩いていた弟子たちはイエスの最期を知っている

どれほど苦しんで、死んでいったかを

わたしたちも知っている


大好きだったおばあちゃん

自分のことはほっといて家族のために働いたおじちゃん

世界の果てまで一緒に旅した弟

キリスト者である意味を教えてくれたシスター


あの人、この人

わたしはこうして生きているが

わたしの最愛の人々はもうここにはいない

みんな、苦しんで死んでいった


あの苦しみをわたしたちは知っている


エマオを歩いていた弟子たちは

イエスの復活をイエスから教えてもらう


イエスは弟子たちと同じ歩幅で

一緒に歩いて「どうしたの?」と聞いてくれる

苦しみしか目に入っていない弟子たちに

苦しみの「先」にある栄光を視るようにと励ましてくれる


イエスは弟子たちよりももっと先に行く

もしも弟子たちが「一緒に泊まってくれ」とお願いしなければ

彼は立ち止まらなかっただろう


イエスは苦しくても、辛くても

栄光へと向かっているから

栄光を見つめているから

一直線に早足で歩いているから


この世の表面的な楽しみや心地よさだけで

満足しないようにしよう


イエスがわたしたちの歩幅に合わせてくれた

今日はわたしがイエスの歩幅に合わせて

栄光へとむかって歩いてみよう

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(日曜日のみことば 2017-04-30)
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