20170508161750.jpg 2017/6/25  年間第12主日 

  第一朗読  エレミヤ書 20:10-13
(エレミヤは言った。)

わたしには聞こえています多くの人の非難が。

「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。

「共に彼を弾劾しよう」と。

わたしの味方だった者も皆,

わたしがつまずくのを待ち構えている。

「彼は惑わされて我々は勝つことができる。

彼に復讐してやろう」と。


しかし主は、恐るべき勇士として、わたしと共にいます。

それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき

勝つことを得ず、成功することなく、甚だしく辱めを受ける。

それは忘れられることのない、とこしえの恥辱である。

万軍の主よ

正義をもって人のはらわたと心を究め、見抜かれる方よ。

わたしに見させてください、あなたが彼らに復讐されるのを。

わたしの訴えをあなたに打ち明け、お任せします。


主に向かって歌い、主を賛美せよ。

主は貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される。

第二朗読  ローマの信徒への手紙 5:12-15
 (皆さん、)一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。

 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。

福音朗読  マタイによる福音書 10:26-33
 (そのとき、イエスは使徒たちに言われた。)「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。

  だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」




黙想のヒント

今日の福音は、「イエスは使徒たちに言われた。"人々を恐れてはならない"」で始まる。

私は、最後の晩餐でのイエスの"別れのことば"を思い起こす。

「心を騒がせるな!

この言葉は、母親から幼い子へのことばでもあり、先生から生徒へのことばでもある。

そして、多くの場合は、本当に、その相手に

「心を騒がせる理由があり、不安の恐怖の中にいる」から言われることばである。

 

福音史家マタイは、紀元8 0年頃この福音書を記述した。

当時の社会の反対やユダヤ教の反発のうちに生きていたキリスト者共同体に、

イエスのことばを思い起こさせ、

福音宣教の使命に生きるよう励ましのことばを送っている。

地上のイエスを囲んだ男性や女性の弟子たちは、

限られた小さなグループであった。

その「隠れたところ」から恐れずに公に宣教する時代が訪れた

とマタイは訴える。

 

今日の福音箇所で、マタイは、3回ほど「恐れるな」と記す。

その言葉の裏には、この先に待ち受ける迫害者たちを

恐れないようにという強い励ましがにじむ。

神は福音のメッセージを保証してくださるので、

すべての人に宣べ伝える福音に対する暴力や迫害を恐れることはない。

今も未来も、宣教師として迫害されることを恐れるな。

当時体と魂は人間の別々の部分ではなく

""は人格の命の原理として考えられていた。

体は殺しても、その命の原理は、

愛する神の御手だけにあるのだから恐れることはない!

 

イエスは、二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか?

と問いかける。

神のこのもっとも小さいものに対する摂理や思いやりを思い起こすならば、

イエスの弟子に恐れるものは何もない。

「あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(マタイ10·29-31参照)

 

最後にイエスは、弟子の私たちー人一人に

ご自分の「証し人」になるように勧める。

宣教する証しは「キリストを告白する」ことと結び付けられている。

恐れずに、公にキリストを認めるか否定するかによって、

イエスの弟子は最後の審判を受ける。

当時のユダヤ教とは対比的に、

福音宣教は神秘宗教や密教的な教えではないと、マタイは述べている。

私たちの恐れを取り除く神はだれであるかを、

この個所の中心課題として

 主張し,喜びのニュースにしたい。

 

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(日曜日のみことば 2017-06-25)
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