20170708104749.jpg 2017/8/20  年間第20主日 
                (聖ベルナルド修道院長教会博士)

第一朗読  イザヤ書 56:1、6-7
主はこう言われる。

正義を守り、恵みの業を行え。

わたしの救いが実現し

わたしの恵みの業が現れるのは間近い。
主のもとに集って来た異邦人が

主に仕え、主の名を愛し、その僕となり

安息日を守り、それを汚すことなく

わたしの契約を固く守るなら

わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き

わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。

彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら

わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。

わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。

第二朗読  ローマの信徒への手紙 11:13-15、29-32
 (皆さん、)では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。
 神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。
 
福音朗読  マタイによる福音書 15:21-28
  (そのとき)イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。




黙想のヒント

 カナン人の母親とイエスとの会話は、ユーモアに満ちています。まるで、禅問答のように、軽快で突拍子もないやりとりが展開します。イエスは、わざといけずな皮肉を並べて相手の出方をうかがいます。一方、母親も怒ることなく平然と諧謔に満ちた答えを返しています。イエスも母親も、実は、ツーカーな相棒のような親しさに裏打ちされており、絶妙な信頼感を備えているように見えます。それにしても軽妙洒脱な会話のキャッチボールではありませんか。


「私は、イスラエルの家の失われた羊たち以外のためには遣わされていないんだよ」(マタイ1524)。


「主よ、どうか、私の娘を助けてください」(マタイ1525)。


 「子供のパンを奪って子犬に与えるのは、よろしくない」(マタイ1526)。


 「おっしゃるとおりです、主よ。しかし、子犬でさえも、主人のテーブルから落ちる食べもののおこぼれにありつくではありませんか」(マタイ1527)。


 「おお、ご婦人よ、あなたの信頼感は、すごいものだなあ。だから、あなたの望むように、事が実現していくでしょう」(マタイ1528)。


 イエスは、一応、当時の常識にのっとって語りかけていきます。当時の風潮では、神の救いとは、まずユダヤ人におよぼされたあとで、異邦人に向けられていくわけであり、序列が設けられていました。しかし、異邦の母親は、神の慈しみのおこぼれを何とかもらおうとして必死に食い下がります。おこぼれであっても、神の恵みには価値がありますから、それを逃すまいと食らいつく母親。しかし、母親がそこまで食い下がる理由は、大切な娘の病をイエスによって治してもらうためでした。子供のためなら、恥も外聞も気にならない。どんなことをしても子供を守ろうとする母親の執拗な熱意がイエスを動かします。冗談であしらわれても、謙虚に受け止めて食い下がる母親は強いです。


 「ユダヤ人たちの罪過によって、救いが異邦人たちへと至り、それが彼らにねたみを起こさせる結果となるのである」(ローマ1111)。――先に異邦人が救われていくことで、もともと選ばれていたユダヤ人たちは悔しさを感じて、必死に頑張って神に従うようになるはずだというパウロの思想には同胞を何とか救いたいという切実さが色濃くにじみでています。パウロもまた異邦の母親のように神に食らいついています。慈しみ深い神に信頼していくことが大切でしょう。――「神はすべての者を不従順へと閉じ込めたのであるが、それはすべての者をあわれむためであったからである」(ローマ1132)。「神の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(イザヤ567)。


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(日曜日のみことば 2017-08-20)
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