20170818101826.jpg 2017/9/3  年間第22主日 

  第一朗読  エレミヤ書 20:7-9
主よ、あなたがわたしを惑わし

わたしは惑わされてあなたに捕らえられました。

あなたの勝ちです。

わたしは一日中、笑い者にされ人が皆、わたしを嘲ります。

わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり

「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。

主の言葉のゆえに、わたしは一日中

恥とそしりを受けねばなりません。

主の名を口にすまい

もうその名によって語るまい、と思っても

主の言葉は、わたしの心の中骨の中に閉じ込められて

火のように燃え上がります。

押さえつけておこうとしてわたしは疲れ果てました。

わたしの負けです。


第二朗読  ローマの信徒への手紙 12:1-2
 兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。


福音朗読  マタイによる福音書 16:21-27
 (そのとき、)イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」


黙想のヒント

 ある薬物依存症の方が、「私は、薬で3度服役しました。その間に両親は亡くなり、妻も子どもと一緒に私の元を離れて行きました。私は自分の罪が赦されないと思っていたのですが、ある神父様の『神は、あなたの罪を赦されますよ』という言葉を聞いて初めて自然の草花の美しさ、周りの人の優しさを感じるようになりました」と話してくださいました。


 彼は洗礼を受け、同じような弱さに陥った人たちのために自助グループの指導者として奉仕する一方、朝から晩まで農作業を行い、そこで得た収穫物を教会や近くの人に販売をしています。


 イエス様は弟子たちに「わたしのために自分の命を失う者は、それを得る。」と言われます。この言葉は、どのようなものなのでしょうか。


 文字通り「自分の命を失う」ような、殉教という意味もあるでしょう。しかし、彼のように、イエスの愛に触れ、イエスに魅せされ、イエスに捕まった人は、理屈など関係なく、一日一日を人のために奉仕をしてしまうのではないでしょうか。


 パウロは、「あなた方の体を、神に喜ばれる生ける犠牲としてささげなさい」と伝えています。この言葉は「わたしのために自分の命を失う者」と共通するのではないでしょか。


 神は、私たち一人ひとりを愛され、私たちがご自分の愛に気がつくことを待ってくださっています。そして、気づいた人は、全身全霊を使いながら人々に奉仕をせずにはいられないのではないでしょうか。


 今まで、薬物に依存していた彼は、神の愛に触れ、今度は、「神に依存」する者となったのです。彼は、神の愛に触れ、人々のために奉仕しすることで今まで感じることがなかった、喜びを知ったのです。この喜びは、イエスが言われる「命を得る」ということではないでしょうか。


 神は、私たちに十字架をくださっています。その十字架を担う時、同じように永遠の命をもくださるのではないでしょうか。


 私たちは、改めて「主の愛に気づく」ことができたらいいですね。

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(日曜日のみことば 2017-09-03)
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