20170914134121.jpg 2017/10/1  年間第26主日 
                

  第一朗読  エゼキエル書 18:25-28
 (主は言われる。)「お前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。」


第二朗読  フィリピの信徒への手紙 2:1-11
 (皆さん、)あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

 《キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。》


福音朗読  マタイによる福音書 21:28-32
 (そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。)「あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」




黙想のヒント

歎異抄の中に「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という言葉があります。この意味は、「善人が救われるのだから、悪人はなおさら救われる」というようなことのようです。また、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』という小説の中に、地獄で苦しむ「カンダタ」が生前1匹の蜘蛛を助けたことを思い出されたお釈迦様が蜘蛛の糸を垂らして彼を救おうとされる場面もあります。



エゼキエル書では、「彼は反省し、それまでに犯した一切の背信から立ち返った」(エゼキエル書1828)とあります。これらの共通しているのは、古今東西、神や仏は、たとえ悪人であったとしても、「回心するのなら、救われる」という「いつくしみと愛」を持っておられるということではないでしょうか。


きょうのみ言葉は、「息子よ、今日、ぶどう園に行って働いておくれ」と言った父親に対して「いやです」と答えた長男は、後で思い直して、ぶどう園に出かけて行き、「おとうさん、承知しました」と言った弟は、行きませんでした。


父親に対して最初に罪を犯したのは、【長男】の方でした。彼は、「あなたは、お兄さんだから……」と小さい頃から言われ続け、いつしか、親への反抗心が芽生えて来たのかもしれません。しかし、一度は「いやです」と言ったものの、長男としての責任感があったのかもしれませんし、弟の性格を知っていたのかもしれません。兄は、出かけて行きます。ある意味、兄の方が正直だったのです。



神は、以前はどのようであったとしても、今の私たちをご覧になられます。神は、たとえ私たちが罪を犯したとしても、いつも回心へと招かれ、救おうと手を差し伸べてくださいます。


私たちは、この神のいつくしみの愛に信頼し、いつも自分を見つめ直して、主に従っていくことができたら良いですね。

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(日曜日のみことば 2017-10-01)
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