20171022102322.jpg 2017/11/26  王であるキリスト(祭日)  

  第一朗読  エゼキエル書 34:11-12、15-17
 まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。

 お前たち、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。


第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 15:20-26、28
 (皆さん、)キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。
 すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。


福音朗読  マタイによる福音書 25:31-46
 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」




黙想のヒント

 今日の福音でイエスがご自分と同一視される「最も小さい者」とは、元来、飢えや渇き、野宿や投獄の危険を冒しながら旅を続けた福音伝道者を意味していた、という説明を読んだことがあります。その福音伝道者をどう迎えたかが、終末の裁きに決定的な意味を持つのだと。それはそれで、説得力のある解釈です。


 一方で、通常言われるように、経済的に困窮している人や社会的に軽んじられている人を指すと考えるのも、弱い立場に追いやられた人に特別な愛情を注がれる御父と、その御心を果たすためにこの世に来られた御子の思いに相応しい理解でしょう。


 その深みで今日のイエスの言葉を思い巡らす時、当時の「飢え」「渇き」「無宿」「裸」「病気」「投獄」の憂き目に遭っている人々の境遇は、現代の苦しむすべての人々の姿となって迫ってきます。さまざまな事情で物理的に飢え渇いている人たちはもちろん、生きる意味に飢え、ありのままの自分を受け入れてくれる人や場所が無く、心を病み、希望の見えない闇に閉じ込められている多くの人たち…。


 今の私にとって、イエスが仰る「最も小さい者」とは、誰でしょうか。そして、その人のために、私に出来ることは何でしょうか。


 注意したいのは、ここでは飢え渇いている人たちに食べさせ飲ませる側がイエスの仲間だとは言われていないことです。貧しく可哀そうな人に力のある私が神に成り代わって上から何かを恵むのではなく、もともとすべて神からの賜物として今自分の手元に預かっているものを、イエスがご自分と同一視なさる大切な方々の必要のために当然分かち合う、ということ。そこに、この世ですでに始まっている神の国の喜びの姿があるのだと思います。


 今日のみことばを心に留めて、私が、日々の歩みの中で出会う兄弟姉妹の必要にもっと敏感になり、物やスキルや時間など、自分が頂いているものを分かち合う喜びに生きることが出来るように、願い求めたいと思います。

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(日曜日のみことば 2017-11-26)
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