20180315063624.jpg 2018/4/1  復活の主日 

  第三朗読  出エジプト記 14:15-15:1a
 (その日、追い迫るエジプト軍を見て、イスラエルの人々が非常に恐れたとき、)主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」

 イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」

 主はモーセに言われた。「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだが、そのとき、水は彼らの右と左に壁となった。主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。

 モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。

参考:第一朗読・創世記1:1~2:2, 第二朗読・創世記22:1-18, 第四朗読・イザヤ54:5-14, 第五朗読・イザヤ55:1-11,  第六朗読・バルク3:9-15,32~4:4 第七朗読・エゼキエル36:16-17a,18-28



 使徒書の朗読 ローマの信徒への手紙 6:3-11
 (皆さん、)あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

 

福音朗読  マルコによる福音書 16:1-7
 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」




黙想のヒント

復活徹夜祭の入堂は、司祭が復活ローソクを手にして聖堂に入り、続いて信徒たちが各々ローソクを手にして司祭の後に入ります。すると、今まで闇に包まれていた聖堂内が何とも言えない温かいローソクの灯りで一杯になります。


マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、そしてサロメは、安息日が終わるとすぐにイエスの体に塗るための香料を買いに行きます。彼女たちの心は、あのむごたらしい十字架上での死を遂げたイエスに、せめて香料を塗って差し上げたいという気持ちで一杯だったのです。これは、彼女たちのイエスへの愛の表れと言ってもいいでしょう。


彼女たちは、朝早く陽が昇るとすぐ墓に行きます。ペトロを始め他の弟子たちがユダヤ人たちを恐れて隠れているのに対して彼女たちは、イエスが納められている墓に行くことが最優先だったのです。ただ、唯一心配だったのは、墓を塞いでいる大きな石の存在でした。彼女たちは、「墓の入り口からあの石を転がしてくれる人が、誰かいるでしょうか。」と話し合います。しかし、その非常な大きな石も彼女たちがついたときには、すでに脇に転がしてありました。


この石は、私たちが復活のイエスに出会うことを「邪魔するもの」「阻むもの」と言ってもいいでしょう。それは、人の力だけではどうしようもないものなのです。おん父は、私たちがイエスに向かうこと、イエスのところに走り寄りたいという気持ちを喜ばれ、助けてくださいます。これは、おん父の愛なのです。


 おん父は、彼女たちが香油を手にしてイエスのところに向かう、そのイエスへの愛に応えられ、石を取り除いてくださいます。私たちが手にして聖堂に入ったローソクの光は、私たち一人ひとりの「愛」と言ってもいいのかもしれません。私たち一人ひとりのローソクは、小さな光ですがたくさんの人が集まるとそれは、聖堂内を温かく包むことができるほどの明かりとなります。それはまるで聖堂内が、私たちのイエスへの愛で一杯になるようです。


私たちは、イエスの墓に向かった彼女たちのように、イエスへの愛を持って復活の喜びを祝うことができたらいいですね。


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(日曜日のみことば 2018-04-01)
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