20180517095416.jpg 2018/6/3  キリストの聖体

  第一朗読  出エジプト記 24:3-8
 (その日、モーセは山から)戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」


第二朗読  ヘブライ人への手紙 9:11-15
 (皆さん、)キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。

 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。


福音朗読  マルコによる福音書 14:12-16、22-26
 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。




黙想のヒント

私たちは、生きている中で何度も、出会いと別れを繰り返したことでしょう。そんな時、相手との思い出を大切にしているのではないでしょうか。


イエスは、長老や、祭司長や、律法学者たちに排斥され、殺される(マルコ831)前の晩に弟子たちと過越の食事を共にします。弟子たちにとっては、毎年行うユダヤ人たちの過越し祭の食事でした。しかし、イエスにとっては、この晩餐が彼らと共にする最後の食事だったのです。


イエスは、弟子たちに「取りなさい。これはわたしの体である」「これはわたしの血、多くの人のために流される契約の血である。」と言われます。イエスは、弟子たちとの共にいつまでも一緒にいたかったことでしょう。イエスは、ご自分と彼らとの思い出の他に、ご自分が教えたみことばや癒し、日々の生活を通して彼らと接してきた様々な出来事の一つひとつを彼らに覚えていて欲しかったはずです。


イエスは、彼らがこれから「パンとぶどう酒」を食する時、ご自分が伝えたことを思い出し、人々に伝えていくため、また、イエスご自身が「体」として「血」としていつまでも弟子たちと共にいるということを信じ、気づかせるために「取りなさい。これはわたしの体である」「これはわたしの血、多くの人のために流される契約の血である。」と言われたのではないでしょうか。


私たちは、これまでミサを通して何度「聖体」をいただいているでしょうか。イエスの愛、私たちといつまでも共にいたいというその「いつくしみの愛」を私たちは、どれほど意識し、味わっているでしょうか。


キリストの聖体の主日、イエスが聖体を残されてその思いを今一度ゆっくり味わうことができたらいいですね。

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(日曜日のみことば 2018-06-03)
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