20180614164229.jpg 2018/7/1  年間第13主日 

  第一朗読  知恵の書 1:13-15、2:23-24
神が死を造られたわけではなく、

命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。

生かすためにこそ神は万物をお造りになった。

世にある造られた物は価値がある。

滅びをもたらす毒はその中になく、

陰府がこの世を支配することもない。

義は不滅である。
神は人間を不滅な者として創造し、

御自分の本性の似姿として造られた。

悪魔のねたみによって死がこの世に入り、

悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。


第二朗読  二  コリントの信徒への手紙  8:7、9、13-15
 (皆さん、)あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。

 「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」と書いてあるとおりです。


福音朗読  マルコによる福音書 5:21-43
 (そのとき、)イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。

大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。

《さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」イエスがまだ話しておられるときに、》

会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。




黙想のヒント

イエスは、みことばの中で「あなたの信仰があなたを救った」とたびたび言われます。このイエスの言葉を黙想する度に「ああ、私の信仰はどのくらいなのだろうか」と振り返ることがあります。

きょうのみことばの中のテーマは、「信仰」ということではないでしょうか。会堂司であるヤイロは、宗教的にも高い身分の方であり、仲間がイエスに対して批判的な態度であるにも関わらず、イエスに娘の病を癒していただくために、足元にひれ伏して懇願します。これは、娘を失いたくない一心で、恥も外聞も無い親が子のために行う姿です。

 次に、12年もの間、出血病を患った女が自分の病を癒していただきたいと思い、群衆に混じってイエスの衣に触れようとします。彼女の病は、命の源である【血】が失われるという病気であるとともに、周りからは「汚れた者」というレッテルを貼られ、礼拝にも参加できず、汚れた者に触れることで触れた人も汚れるということで、誰も彼女と接する人もいませんでした。ましてや彼女の方から誰かに接しようということも律法で禁じられていました。


 彼女は、自分の病気以上に「霊的な渇望」「孤独」「疎外感」「絶望」など肉体的にも精神的にも12年という年月を苦しんでいました。また、彼女は医者にかかって自分の持ち物をことごとく使い果たすという経済的にも苦しんでいたのです。


 彼女は、「イエスの衣にさえ触れることができれば、救われるに違いない」と思ってイエスの衣に触れます。彼女は、もう、人間的な力だけではどうすることもできない、イエスだけが自分を救ってくれる唯一の方だと思ったのでしょう。


 私たちは、肉体的な【病】だけでなく、日常の中で起こる様々な【障害】があるのではないでしょうか。それらに対して「自分の力でなんとかしよう」という気持ちで向かってもやはりうまくいかないことがあります。そのような時「イエスに触れよう」という気持ちで向かうことが大切だと思うのです。【私】という限界を知り、その無力さを味わった時に初めて「イエスに触れよう」という謙遜な気持ちが現れるのかもしれません。


 私たちは、自分の力に頼りがちですが、今一度「イエスに触れさえすれば救われる」という彼女の信仰に倣い、イエスに信頼して【手】を伸ばしてみる、勇気と謙遜さを祈り求めることができたらいいですね。

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(日曜日のみことば 2018-07-01)
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