20180615133830.jpg 2018/7/8  年間第14主日 

  第一朗読  エゼキエル書 2:2-5
 (その日、)霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。主は言われた。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。」


第二朗読  二  コリントの信徒への手紙 12:7b-10
 (皆さん、わたしが)思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。


福音朗読  マルコによる福音書 6:1-6
 (そのとき、)イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。

 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。




黙想のヒント

今日のマルコの福音ではイエスさまが弟子たちと一緒に故郷へお帰りになった時の出来事が語られています。これを読みながら、二つの事が心に響きました。

 

一つはイエスさまが、ご自分の育った町を弟子たちに紹介し、ご自分の歴史を示される姿です。

イエスさまと弟子たちの関わりは、とても親しいものだったと感じます。

ご自分がどのような育ち方をしたか、どのような町に住んでいたか、兄弟は、近所の人はどのような人たちであったか・・・それらを弟子たちに示しながらイエスという人は、神のおん子であり、“ナザレ人”という人の子であることを、しっかりと真実の事として、伝えようとされるイエスさまの姿です。

 

もう一つは、弟子たちを連れてある場所へ行き、そこで人々と出会い語り合い、その出会いや語り合いの中で起きる出来事を通して、イエスさまが何か大切なことを伝えようとされる姿です。イエスさまにとって、“人と出会う”という事はとっても大事なことなのでしょう。

 

そこで今日の福音では、イエスさまと出会った故郷の人々が、イエスの姿につまずく様子が語られています。

“この人は大工ではないか。マリアの息子でその兄弟・姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか”と、人々がつぶやいています。

時として人は、神様は全能な方なので、はるかかなた上の方におられ、降りてこられると思ったりします。しかし、イエスさまは、私たちと同様に汗水流して働き、日々の労苦を周りの人と同様に味わい、生きられる、“人”“神”であり、まことに、私たちの日常の中で、すぐ傍で“共に”生きていて下さるお方なのです。

 

このようにつまずく人々の姿に、イエスさまは驚かれますが、ご自分の使命、人に寄り添い共に歩む使命をさらに強く感じておられるイエスさまの姿が心に浮かびます。私たちを、「友よ」と呼ぶ心で生きておられるイエスさまの姿が。

 

ナザレ人としてこの世に来てくださったイエスさまに心から感謝の祈りをささげたい。

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(日曜日のみことば 2018-07-08)
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