20180705113309.jpg 2018/7/29  年間第17主日 
  第一朗読  列王記 下 4:42-44
 (ギルガルの地が飢饉に見舞われていたとき、)一人の男がバアル・シャリシャから初物のパン、大麦パン二十個と新しい穀物を袋に入れて神の人(エリシャ)のもとに持って来た。神の人は、「人々に与えて食べさせなさい」と命じたが、召し使いは、「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と答えた。エリシャは再び命じた。「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる。『彼らは食べきれずに残す。』」召し使いがそれを配ったところ、主の言葉のとおり彼らは食べきれずに残した。


第二朗読  エフェソの信徒への手紙 4:1-6
 (皆さん、)主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。


福音朗読  ヨハネによる福音書 6:1-15
 (そのとき、)イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。




黙想のヒント

イエスの時代、病人といえば、世間一般から隔離され、人間社会の人々とは交流が絶たれ、いわば、「社会の外」で生活せねばならなかったので、彼らはとても孤独でした。聖書には、癒され完治した病人が祭司に自分の病気の治ったことを知らせ、身体を見せて、完治を証明してもらったのち、社会に戻ったという場面が記されています。逆に、「誰がおまえを治したのか?」と病人が祭司や律法学者たちから問われているように、病気と治癒に関して人々の大きな関心事があったことがうかがえます。


さて、イエスの周りには、人間社会から疎外された病人や、悪霊に取り憑かれた人たちが集まっていました。彼らはおそらく一人ぼっちだったのでしょう。寂しかったでしょう。孤独だったでしょう。けれども、イエスのそばに近づいたら、人間としての生きる力が回復していきます。そして、この人々は、社会に戻っていきます。するとまた、彼らは、社会の外で生活せねばならないかつての自分のような人々を目にしたでしょう。ああ、昔の自分のような人がいる、このままではいけない!こうして、回復した人々は、今も一人ぼっちのままの人々をイエスのそばに連れて行ったのです。


       心の眼をよく見開いて、想像したいと思います。このような人たちがたくさん集まって、何も食べさせないで、この人たちを帰らせるわけにはいかないという現状を。しょんぼりして座っている一人ぼっちの人たち、この一人一人に自分の持っているものを少しずつでも分けて、ちょっとでも元気を回復してもらいたい。自然な気持ちです。イエスは、フィリポに向かって、ニヤニヤしながら言ったのだと思います。「はてさて、どこで食べ物買ってくるつもり?」と。


       そうです。私たちは持っています。五つのパンと二匹の魚を。それでいいんです。戸棚の中で硬くなったお饅頭があるんです。なんだっていいんです。


       人々はなんでもいいからなけなしの持っているものを分かち合った。彼らは、誰にだってできるはず、でも、実は、誰にでもできるわけではないことができた人々なのです。イエスはわたしたちキリスト者に、同じようにして欲しいと、あとを託されているのです。

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(日曜日のみことば 2018-07-29)
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