20170311153651.jpg 2017/4/13  聖木曜日(主の晩さんの夕べのミサ)

  第一朗読  出エジプト記 12:1-8、11-14
  (その日、)エジプトの国で、主はモーセとアロンに言われた。「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。もし、家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。
 それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である。その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。』」

第二朗読 一コリント11:23~26

 (皆さん、)わたしがあなた方に伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これはあなた方のための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。」と言われました。また食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい。」と言われました。だからあなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです。

  福音朗読  ヨハネによる福音書 13:1-15
 過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

  さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」



祈りのヒント

一番低い、奴隷の仕事とされる洗足を、主であるイエスが行ったとき、

ペトロの心に抵抗が生まれた。

わたしたちも、イエスに倣って仕えようとするとき、抵抗が生まれる。

高みを望む自我は、僕の姿を嫌うのかもしれない。

 

祈りのなかで、低く身をかがめ、汚れたわたしたちの足を洗うイエスの手から、

イエスの深い愛が伝わってくるとき、

イエスがわたしたちに向ける奉仕は、愛することだと確認できるだろう。

 

仕えることをとおして、エゴイズムを離れ、

仕えることをとおして、差し出す愛を学び、

仕えながら、わたしたちは 愛を生き直していくのだ。

互いの存在の交わりのなかに、仕える僕の姿はつくられていくのだろう。

 

神が人の足を洗う神! その神がわたしたちの神なのだから…!

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(毎日のみことば 2017-04-13)
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