1月16日 年間第2主日

第一朗読  イザヤ書 62:1-5
シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず エルサレムのために、わたしは決して黙さない。
彼女の正しさが光と輝き出で 彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。
諸国の民はあなたの正しさを見、王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。
主の口が定めた新しい名をもってあなたは呼ばれるであろう。
あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり あなたの神の御手の中で王冠となる。
あなたは再び「捨てられた女」と呼ばれることなく あなたの土地は再び「荒廃」と呼ばれることはない。
あなたは「望まれるもの」と呼ばれ あなたの土地は「夫を持つもの」と呼ばれる。
主があなたを望まれ、あなたの土地は夫を得るからである。
若者がおとめをめとるように あなたを再建される方があなたをめとり
花婿が花嫁を喜びとするように あなたの神はあなたを喜びとされる。

第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 12:4-11
(皆さん、)賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

福音朗読  ヨハネによる福音書 2:1-11
(そのとき、)三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

祈りのヒント
神の栄光とは、人びとのしあわせを実現することなのでしょう。それは、カナの婚宴の出来事を眺めるとよくわかります。イエスによる「最初のしるし」は神の栄光を現わすことでした。イエスを通して神のいつくしみ深い愛情が人知れず大きな影響をおよぼします。
イエスは常に誰かのしあわせを実現するために働きました。イエスの言葉とわざは相手を励まし、活かします。しかも、目立たない心づかいを通して、さりげなく、イエスは水をぶどう酒に変えます。母親のマリアの目立たない後押しもまた、さりげない心づかいによって相手のしあわせを願う気持ちであふれていました。相手を想う愛情のあふれが共同体全体を喜びで満たします。
ヨハネ福音書で頻繁に描かれる「しるし」とは、神のいつくしみ深い働きが人間を活かすことで、しあわせに導く出来事です。相手をしあわせに導くことで、共同体がじゅうぶんに成長してゆく様子が、神の栄光なのです。神の栄光とは、神の圧倒的な存在感(臨在)を相手に実感させることであり、「重みのある出来事」あるいは「重大なことがら」を示します。神による、いのちがけの関わりかたが人間に示されるのです。神の愛の重大さが明らかになることが栄光と呼ばれています。
相手のしあわせをじゅうぶんに実現する神のわざの完成の輝きが、栄光としてあらゆるものを照らし、暖めることになります。体当たりで、真剣に、相手に向き合う神が確かにいらっしゃるという事実に気づくときに、神の存在価値が相手の心に自覚されます。
イエスは常に相手のしあわせのために奇跡的な励ましを授けます。自分の名声をとどろかせるための奇術などではなく、むしろ相手のしあわせを最優先する徹底的な奉仕のへりくだりの姿勢が、神のわざとしての「しるし」なのです。

イザヤの預言の呼びかけからは、「神はあなたを喜びとされる」という貴重な言葉が聞こえてきます。そのひとことは、まさに、神が、いかに人間ひとりひとりを大切にしているのかを、じゅうぶんに示しています。私たちは個人的な悩みによって落ち込みます。しかし、神はそのような私たちをまるごと認めて、愛する相手として迎えてくださるのです。
神は人間を伴侶として迎え入れ、いっしょに生きてくださいます。愛情に満たされた婚姻関係を生きる神の呼びかけに気づくときに、私たちは満ち足りた安心感を身に受けます。

パウロが教えているように、「全体の益となるために」、神は人間ひとりひとりに賜物を与えます。それぞれの人は各自の独特な能力を活かして誰かを支えるときに、全体の益を創造することになります。たがいに助け合い、支え合うときに、それぞれの人の能力が結び合わされて増幅し、相乗効果をあげることになり、共同体全体が豊かに安定するのです。ひとりひとりの独自の長所を発揮し合う相互交流が、共同体の発展につながるのです。

(日曜日のみことば 2022-01-16 )

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