1月24日 年間第3主日(神のことばの主日)

第一朗読  ヨナ書 3:1-5、10
主の言葉がヨナに臨んだ。「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」
ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。
「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」
すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。
神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。

第二朗読  一 コリントの信徒への手紙 7:29-31
兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。

福音朗読  マルコによる福音書 1:14-20
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

祈りのヒント
 コロナ禍の只中で、「もうこの世界、結局愛しか残らないんじゃないかという気がしてきた」とSNSに書いた人がいました。不安と混乱とさまざまな制約に翻弄されながら、不要不急の事柄を省いていくうちに、最後まで意味あるものとして残るのは人が人を大切に思う気持ちだけだと悟った、ということでしょう。今日の聖書朗読で言われている「時が満ち」「定められた時が迫っている」世界で、神の呼びかけに耳を傾ける時の心構えにも、通じるものがある気がします。
今日の福音で、イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と告げられ、ガリラヤ湖で働く漁師三人を弟子となるように呼ばれました。その同じイエスが、私たち一人ひとりの日々の生活の中でも、「わたしについて来なさい」と語りかけておられます。
神が人となられて私たちの間に住み、互いに愛し合うようにという模範と掟を残して十字架で死に、復活されました。時はすでに満ちています。神の国は始まっています。その神の愛を知ってその愛に生かされ、その愛を分かち合う日々を送る時、富や名誉や競争での勝利など、この世で価値あるものとされがちな事柄が色褪せていき、すべての人々、特にこの世の片隅に追いやられた人々の幸せを願う心が強くなっていく…。そんな心の動きは、イエスに従うことを選んだ信者であれば、多かれ少なかれ経験があるかもしれません。
与えられた限られた時間を、この私はどう使って生きていくのか。「イエスについていく」とは、今の私にとっては具体的に何を意味し、どういう行動を選ぶことなのか。今日の福音を通して、改めて根本的に問われているように感じます。今日、新たな気持でイエスの招きをしっかり聴き、日常の生活の中でそれに応えていく恵みを願いたいと思います。
(日曜日のみことば 21-01-24 B年) )

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