1月30日 年間第4主日

第一朗読  エレミヤ書 1:4-5、17-19
(ヨシア王の時代に)主の言葉がわたしに臨んだ。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。
母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた。
あなたは腰に帯を締め立って、彼らに語れ わたしが命じることをすべて。
彼らの前におののくな わたし自身があなたを彼らの前でおののかせることがないように。
わたしは今日、あなたをこの国全土に向けて 堅固な町とし、鉄の柱、青銅の城壁として
ユダの王やその高官たち その祭司や国の民に立ち向かわせる。彼らはあなたに戦いを挑むが 勝つことはできない。
わたしがあなたと共にいて、救い出すと主は言われた。」

第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 12:31-13:13
(皆さん、)《もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。》
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

福音朗読  ルカによる福音書 4:21-30
(そのとき、ナザレの会堂で預言者イザヤの書を読まれた)イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

祈りのヒント
仕事柄、若い人と出会う機会があり、その時に彼らや彼女らの話を聞くと、さまざまな事を考えさせられる。先日、女性の整形手術についての話を聞いた。自分(の顔?)に自信のもてない人は簡単に整形手術を行える時代になった。しかし、高額を払って行われる芸能人の手術とは違い、一般人の安い手術では永久に顔かたちを保てるわけではない。一ヶ月後に元に戻ったり、変形したりするので、すぐに修正のために病院に行かねばならない。かたちを保つためにヒアルロン酸を打ちに行くことも必要になる。一度これに手を染めたら、病院からもう離れることはできないそうだ。整形手術の一般化についてはメディア情報をある程度知っていたが、実際に現実の人の話を聞くと背筋が寒くなった。
現代、多くの人が医者に頼りっきりになっている。
特に、整形手術など病気ではないのだから本来、頼るべきものでもないだろう。しかし、そういった従属の仕組みが「医療」という印籠の元にすべてが秩序づけられ、当たり前のものとされてしまっているので、無意識のうちに人を医者に頼らせてしまっているのだ。こういう医療の仕組みにがんじがらめになっている現代、今、ここに、イエスが再臨したら、彼は私たちになんと言うだろうか?
イエスが今ここに来たら、私たちは「助けてくれ」と彼にすがるだろう。そして、イエスは言うだろう。「聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。イエスはご自分を医者のように頼らせる民衆の空気感に対して敏感である。福音書の「ここでもしてくれ」という民衆の声は、ある意味で「医療」と同様、「宗教」の従属システムにイエスと民衆を位置付けることであり、それが本当の意味で人の助けにはならないことをイエス自身が一番わかっているだろう。
だから、今日、自分自身の心の奥底にある小さな「実現させる力」に気づきたい。祈りの深みから、私が実現させていることに気づきたい。「してくれ」ではなく「します」と言えるようになるために……。
(日曜日のみことば 2022-01-30 )

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