10月1日 聖テレジア(幼いイエスの)おとめ教会博士

第一朗読 ヨブ記 3:1-3、11-17, 20-23
ヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、言った。
わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。
なぜ、わたしは母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか。せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。
なぜ、膝があってわたしを抱き 乳房があって乳を飲ませたのか。
それさえなければ、今は黙して伏し 憩いを得て眠りについていたであろうに。
今は廃虚となった町々を築いた 地の王や参議らと共に 金を蓄え、館を銀で満たした諸侯と共に。
なぜわたしは、葬り去られた流産の子 光を見ない子とならなかったのか。
そこでは神に逆らう者も暴れ回ることをやめ 疲れた者も憩いを得(る。)
なぜ、労苦する者に光を賜り 悩み嘆く者を生かしておかれるのか。
彼らは死を待っているが、死は来ない。地に埋もれた宝にもまさって 死を探し求めているのに。
墓を見いだすことさえできれば 喜び躍り、歓喜するだろうに。
行くべき道が隠されている者の前を 神はなお柵でふさがれる。

ルカによる福音書 9:51-56
イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。

尊敬する師が侮辱されるのは自分たちが侮辱されるのも同然。イエス様と対等な力を有しているかのように思い上がる弟子たちを、イエスは愛のまなざしで戒められたのではないか。今はわからないだろう、でもいつか必ず、勘違いに気づく時が来ると希望を込めて。
(毎日のみことば 2024-10-01)

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