10月20日 年間第29主日

第一朗読  イザヤ書 53:10-11
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ  彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。
彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。

第二朗読  ヘブライ人への手紙 4:14-16
(皆さん、)わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

福音朗読  マルコによる福音書 10:35-45
(そのとき、) 《ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこでイエスは一同》
を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

祈りのヒント
 イエス・キリストは弟子たちをたしなめます。その際、イエス・キリストは「あなたがたの中で偉くなりたい者は」という言い方や「いちばん上になりたい者は」という言い方を、あえて選んで語ります。弟子たちが、どうしても偉くなりたい、あるいは上になりたいタイプの人間たちであることをイエス・キリストが熟知しているからなのでしょう。
イエス・キリストは相手の状況をありのままに理解してから、相手がどうしても目指してしまう人間的な方向性をそのまま用いています。イエス・キリストは弟子たちに対して「偉くなってはいけません」とか「いちばん上になってはいけません」という禁止命令を一切出していないのですから。弟子たちの傲慢な性格が、そう簡単には治らないことを、イエス・キリストはじゅうぶんに理解しているのです。それで、あえて弟子たちの上昇志向の性質をうまくたくみに用いて助言を与えたのです。
おそらく、弟子たちは素朴に元々の性格のままで上に昇ろうとするはずです。しかし、弟子たちは「皆に仕え」、「すべての人の僕となる」ことに没頭することでしょう。弟子たちは、偉くなり、いちばん上になるために、必死になって「皆に仕え」、「すべての人の僕となり」続けるわけです。最初は自分の都合で取り組んでいたことが、次第に相手に仕えて僕となることの意味深さを理解するような回心へと徐々に変化する流れを、イエス・キリストは期待して、見守っているのでしょう。これがイエス・キリストによる弟子たちに対する独特な教育でした。
イザヤの預言やヘブライ書は「献げもの」としての生き方を選ぶ救い主の姿を描いています。これら二つの書物では、他者の罪をすべて背負って、他者を正しい者として活かすための「いけにえ」として祈る、へりくだりの姿勢が信仰深い者のまことの歩みとして強調されています。その生き方はイエス・キリスト御自身が選んだものでした。そして、他者を正しい者として活かす伝統を途絶えさせないために、イエス・キリストは弟子たちを呼び集めて後事を託したのです。しかし、弟子たちはイエス・キリストの生き方の意味を理解できないままでした。そこで、イエス・キリストは独特な教育を施したのです。
(日曜日のみことば 2024-10-20)

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