10月24日 年間第30日曜日

第一朗読  エレミヤ書 31:7-9
主はこう言われる。ヤコブのために喜び歌い、喜び祝え。
諸国民の頭のために叫びをあげよ。声を響かせ、賛美せよ。そして言え。
「主よ、あなたの民をお救いくださいイスラエルの残りの者を。」
見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し 地の果てから呼び集める。
その中には目の見えない人も、歩けない人も 身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。
彼らは大いなる会衆となって帰って来る。彼らは泣きながら帰って来る。
わたしは彼らを慰めながら導き 流れに沿って行かせる。彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。
わたしはイスラエルの父となり エフライムはわたしの長子となる。

第二朗読  ヘブライ人への手紙 5:1-6
大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。
同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、
「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」
と言われた方が、それをお与えになったのです。また、神は他の個所で、
「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」と言われています。

福音朗読  マルコによる福音書 10:46-52
イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

祈りのヒント
マルコ福音書の後半(マルコ8:27)から始まったイエスとその弟子たちのエルサレムへの旅がマルコ11:1で終わる。その旅に先立って、イエスはある目の見えない人に、少しずつ視力を与えた(マルコ8:22-26参照)。エルサレムへの道の最後の行程で、エリコの町を出て行こうとしているときに、イエスはバルティマイという盲人に出会い、視力の回復を与える。
バルティマイが自分のおかれた”暗いところ“からナザレのイエスの噂を聞き、信仰の心でイエスとの出会いを求める。彼は目が不自由で、群衆に遮られているにもかかわらず、まわりの“見える人々”より、イエスの本性が“見えている”。

孤独と長い暗闇の中から、光を求めていたバルティマイに新しい出会いのチャンスが訪れた。彼には「ナザレのイエスという先生がお通りだ」という噂を聞いていたので、群衆の騒ぐ声と興奮でイエスと分かった。盲人はこの先生イエスに「ダビデ王の子孫から出てくるメシア・救い主」を重ね合わせる。彼は叫ぶ。「主よ、わたしを憐れんでください」。無力と苦しみの体験から生まれた彼の物乞いのことばは、イエスの前で本物の救いを求める叫びに変わっていった。

人々には、邪魔で迷惑な叫びにしか聞こえなかったバルティマイの声がナザレのイエスの心を強く打つ。イエスの憐みは周りの人々の妨げを退け、必死に救いを求めるバルティマイとの出会いを望み、彼を癒す。盲人の強い信仰に心を打たれるイエス。
イエスは立ち止まって、盲人の救いへの叫びに応え、彼と出会う。イエスに呼ばれて、彼はすべて(の上着)を捨て、大喜びのうちに、イエスとの出会いに向かって行く。イエスは「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。

イエスとの出会いにおいて、「見えるようになりたい人」は「本当の視力」を与えられる。イエスはここで、この人の自分への信頼が救いにつながっていることを強調する。信仰の目で見えるようになった人はイエスの道に従うことができる人になる。イエスとの出会いによって癒されたバルティマイは“イエスの道に従う”弟子でありたいと願う私たちの‟モデル“になる。マルコは、盲目や物乞いの暗い世界の道端に座っているバルティマイという人の話において、イエスに従っている弟子たちの「心の盲目」のいやしを暗示している。

(日曜日のみことば 2021-10-24)

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