10月4日 聖フランシスコ(アシジ)修道者

第一朗読  バルク書 1:15b-22
わたしたちの神なる主は正しい方であるのに、わたしたちの顔は今日、恥で覆われています。ユダの人々、エルサレムに住む人々、わたしたちの王、高官、祭司、預言者、先祖たちも皆そうです。それは、わたしたちが主に対して罪を犯し、主に背いたからです。わたしたちは神なる主の御声に耳を傾けず、主がわたしたちに与えてくださった命令に従いませんでした。主がわたしたちの先祖をエジプトの地から導き出された日から今日に至るまで、わたしたちは神なる主に背き、主を軽んじて、御声に耳を貸しませんでした。そのためわたしたちは今日、数々の災いと呪いに付きまとわれているのです。この呪いは、主が乳と蜜の流れる地をわたしたちに与えようと、先祖をエジプトの地から導き出された日に、その僕モーセを通して宣告されたものです。わたしたちは、主から遣わされた預言者のあらゆる警告を無視して、神なる主の御声に聞き従わず、おのおの、よこしまな心の思いのままに歩んで、他の神々に仕え、神なる主の御前で悪を行いました。

福音朗読  ルカによる福音書 10:13-16
(そのとき、イエスは言われた。)「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。
あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」

祈りのヒント
悔い改めるとは、主に立ち帰ること。本来のあるべき姿に戻るということ。それができないとは何と不幸なことか。
イエスの言葉は父なる神の言葉。今を生きる私たちも問われている。自分たちで社会を複雑に忙しくしておいて、聞く暇がないと言い訳していないだろうか?
(毎日のみことば 2019-10-04)

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