10月6日 年間第27主日

第一朗読  ハバクク書 1:2-3、2:2-4
主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのにいつまで、あなたは聞いてくださらないのか。
わたしが、あなたに「不法」と訴えているのにあなたは助けてくださらない。
どうして、あなたはわたしに災いを見させ労苦に目を留めさせられるのか。
暴虐と不法がわたしの前にあり争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。
主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように板の上にはっきりと記せ。定められた時のためにもうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」

第二朗読  テモテへの手紙 二 1:6-8、13-14
(愛する者よ、)わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。
キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。

福音朗読  ルカによる福音書 17:5-10
使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

祈りのヒント
 高校生の頃、「信仰がどのくらいなのか測る機械があればいいな」と思ったことがあります。例えば、「今は70、とか30」というようにと目で見てわかると、もう少し信仰を増やすように努力することができる、と思ったことがあります。しかし、今考えてみると、それはとても怖いことですし、もうその時点で「傲慢」なことだと気づきます。

きょうのみことばで「使徒」たちは、イエスに「わたしたちの信仰を増してください」とお願いします。弟子たちは、イエスから人を赦すことを聞かされた後に「自分たちにもっと信仰があれば、人を赦すことができる」と思ったのかもしれません。

イエスは彼らに「もし、あなた方に一粒のからし種ほどの信仰があるなら、この桑の木に『根こそぎに、海の中に根を下ろせ』と言えば、言うことを聞く」と言われます。きっと、弟子たちは「そのようなことは無理だ」と思ったことでしょう。いいえ、今の私たちも同じように思うのではないでしょうか。そして、もうそこで諦めてしまいます。

イエスは、私たちに「『自分で何とかしよう』と言う考えから離れなさい」と言われているのではないでしょうか。自分で何でもできると思う時、イエスは働くことができません。しかし、「私は、無力です。何もできません。しかし、あなたならできるでしょう」と祈る心が「からし種の信仰」ではないでしょうか。

イエスは、次に『主人と僕』の譬えを語られます。この譬え話は、一見厳しく見えますが、最後に「『わたしたちは取るに足らない僕です。なすべきことを果たしたにすぎません』」と言いなさいと結ばれています。私たちは、一生懸命に働いたとき何がしらの評価を期待します。イエスは、そうではなく「このように応える事ができる心の謙遜さ」を伝えようとしているのではないでしょうか。

私たちは、「信仰を増す」と言うことに固執しすぎて、「自分で何とかしないと」と言う「傲慢な心」への傾きになってしまいます。みことばは、「信仰を増やすためには、「わたしたちは取るに足りない僕です」と言う【謙遜な心】を養うとき自ずと「信仰が増す」ということを伝えようとしているのではないでしょうか。

(日曜日のみことば 2019-10-06)

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