11月24日 王であるキリスト

第一朗読  サムエル記 下 5:1-3
(その日、)イスラエルの全部族はヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」
イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。

第二朗読  コロサイの信徒への手紙 1:12-20
(皆さん、わたしたちは、)光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝(しています。)御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

福音朗読  ルカによる福音書 23:35-43
(そのとき、議員たちはイエスを)あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

祈りのヒント
今日の福音の中で、三度繰り返されるフレーズがあります。「自分を救え」です。

十字架につけられたイエスに対し、まずは議員たちが「メシアなら、自分を救うがよい」とあざ笑い、兵士たちも「ユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と侮辱し、一緒に十字架にかけられていた犯罪人の一人までもが「メシアなら、自分自身を救ってみろ」とののしります。公生活に入る直前のイエスが荒れ野で悪魔から誘惑を受けた時の、「神の子なら、自分のために自分の力を使ってみせろ」という誘いの声と重なります(ルカ4:1-13)。宣教の初めにしつこく聞えたその誘惑に屈しなかったイエスは、地上の生涯の終わりの想像を絶する苦悩の中で、再度聞こえてきた同じ誘惑にも屈しませんでした。

それは、力(権力、財産、能力)のある人間に共通する、大きな誘惑なのだと思います。自分の力を自分のためだけに使い過ぎて失脚した残念な権力者の例は、枚挙にいとまがありません。

ある人が神のしもべとして本物かどうかは、その人が持つ力をどのように使っているかに端的に表れます。どんな状況にあっても司祭としての特権を使わず、カトリック系の病院でも待合室に普通に並び、気付いて飛んできたその病院のシスターに「皆さんと同じにしてください」と仰ったという今は亡き宣教師の穏やかな姿を思い出します。

私たちの神は、「仕えられるためではなく仕えるために」(マタイ20:28)この世に来た神。ご自分の全知全能を決してご自分のためにはお使いにならない神。十字架のイエスを見つめながら、自分のことは完全に神に委ねて、頂いている力を神と人のために使っていく人生こそが、イエスとともにいる「楽園」の幸いにつながるのだと、改めて思い返したいと思います。

(日曜日のみことば 2019-11-24)

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