11月26日 王であるキリスト

第一朗読  エゼキエル書 34:11-12、15-17
まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。
お前たち、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。

第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 15:20-26、28
(皆さん、)キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。

福音朗読  マタイによる福音書 25:31-46
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

祈りのヒント
私は、なぜかこのみ言葉を読んですぐ、「善いサマリア人」(ルカ10:25-37)の中の二つのみ言葉が心に浮かんできました。一つはある律法の専門家の「わたしの隣人とはだれですか(29節)」、もう一つはイエスの「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか(36節)」という問いです。数日間、この二つの問いと、羊と山羊について思い巡らし、祈ってみました。
すると、ある律法の専門家の「私の隣人」という姿勢は、左側にいる人たちの「いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか」という現実に、つながる感じがしてきました。「私の」という場所は、私の価値観、私の考え、私の都合、私の好み等が優先され、「最も小さい者の一人」を見失う「私」になってしまうのではないか。そのとき、「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」とイエスが言われるように、神から離れることになってしまうのではないか、と気づいたのです。
右側にいる人たちは、イエスのように「追いはぎにあった人」つまり「最も小さい者の一人」を真ん中にし、ただ心の奥からこみあげてくる憐れみの感覚に動かされ、自分を無にして最も小さい者の一人に近寄り、自分にできる全てのことを行ったのだと思います。そして神から「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と認められて永遠の命を受けます。
羊と山羊は、昼間は一緒に放牧されていたそうです。今を生きる私たちの心の中にも、羊と山羊は一緒に住んでいるのではないでしょうか。毎日の祈りのとき、深い静まりの中で自分の内を見つめ、自己中心の「私」から離れた私を探してみましょう。その場所は、神とつながる場所であり、神の憐れみが私の内に流れこむ場所なのではないでしょうか。
(日曜日のみことば 2023-11-26)

 

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